第一次世界大戦の轍=01=

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 ウィキペディア氏曰く、「一次世界大戦(World War I)は、1914年(大正3年)から1918年(大正7年)にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦であり、ヨーロッパが主戦場となったが、戦闘はアフリカ、中東、東アジア、太平洋、大西洋、インド洋にもおよび世界の多数の国が参戦した」と解説し始める。彼は言葉に拘り、第二次世界大戦が勃発する以前は、世界大戦争(World War)と呼ばれていた。あるいは大戦争(Great War)、諸国民の戦争(War of the Nations)、欧州大戦(War in Europe)とも呼ばれていた。 とも解説し、更には 当初には《諸戦争を終わらせる戦争(War to end wars)》との追記している。

さて、 当時のヨーロッパ列強は複雑な同盟・対立関係の中にあった。 列強の参謀本部は敵国の侵略に備え、総動員を含む戦争計画を立案していた。 1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が銃撃されるというサラエボ事件を契機に、各国の軍部は総動員を発令した。 各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる。

各国はドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアからなる中央同盟国=以下同盟国=と、三国協商を形成していたイギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国=以下連合国=の2つの陣営に分かれ、日本、イタリア、アメリカ合州国も後に連合国側に立ち参戦した。 多くの人々は戦争が早期に(その年のクリスマスまでに)終結すると楽観していた。 しかし、機関銃の組織的運用等により防御側優位の状況が生じ、弾幕を避けるために塹壕を掘りながら戦いを進める「塹壕戦」が主流となったため戦線は膠着し、戦争は長期化した。

この結果、大戦参加国は国民経済を総動員する国家総力戦を強いられることとなり、それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害がもたらされた。 長期戦により一般市民への統制は強化され、海上封鎖の影響により植民地との連絡が断たれた同盟諸国は経済が疲弊した。

1918年に入るとトルコ、オーストリアで革命が発生して帝国が瓦解。 ドイツでも、11月にキール軍港での水兵の反乱をきっかけに、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれ大戦は終結した。 足かけ5年にわたったこの大戦争で900万人以上の兵士が戦死し、戦争終結時には史上2番目に犠牲者の多い戦争として記録された。

また、この戦争はボリシェヴィキロシア革命を起こす契機となり、20世紀に社会主義が世界を席巻する契機とも成る。 列強の覇権主義に衰退し切ったドイツは、国家社会主義に急速に傾斜し、反ユダヤ主義・反共産主義・反個人主義を標榜するナチズムが台頭して行く。 日本は日英同盟が破断して、欧州列強諸国の中に孤立する。 海軍の盟友であった日英に米国が割り込んでくる。 アジアでの利権が絡んで第二次世界大戦へと国際政局は雪崩れ込むのである。

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❢❢❢ バルカンに響いた不吉な銃声 ❢❢❢

歴史を学ぶとき、第一次世界大戦の発端として最初に登場する「サラエボ事件(Assassination of Archduke Franz Ferdinand of Austria)」。 事件の起こった都市サラエボは、バルカン半島に位置し、現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都にあたる。 街の中心にはミリャツカ川が穏やかに流れ、この街を特徴づける美しい眺めを作り出している。そこに古くからかかる「ラテン橋」は、ある人物の名から、「プリンツィプ橋」と呼ばれたこともあった。ガブリロ・プリンツィプ、その人である。

100年前の6月28日。 まもなく20歳を迎えようとしていたこの青年は、ラテン橋近くの軽食店の前に立ち、自問していた。 「このまま計画は未遂に終わるのか。今日こそが敵を打ち取る絶好のチャンスなのに…」。

15世紀以降、トルコ(オスマン帝国)領であったボスニア地方は、1878年にオーストリア=ハンガリー(以下オーストリア)の支配下におかれ、1908年に併合されていた。 同地域に住むセルビア人は言うまでもなく、スラブ主義を掲げる近隣諸国、なかでも隣国セルビアは、この併合に反発し、反オーストリア運動も活発に行われるようになっていた。

プリンツィプはそんな時代にあったボスニア地方の僻村で、1894年にセルビア正教を信仰する両親の元に生まれた。 農家を営む一家は貧しく、両親は、彼が13歳のとき、帝国から課せられる重税にあえぎ、やむなく息子を手放すことを決め、プリンツィプは兄とともにサラエボで暮らすこととなる。親の苦しむ姿を目の当たりにし、幼心にも帝国への恨みが芽生えていったのは想像に難くない。 オーストリアによる戒厳令が敷かれる中で多感な時期を過ごすうちに、帝国に対する憎しみ、支配からの解放を求める思いは膨れ上がっていった。

そしていよいよその思いを晴らす時を迎えたのである。 奇しくもこの6月28日は、「聖ヴィトゥスの日」と呼ばれるセルビア正教における神聖な祝日。 この重要な日に、オーストリアの次期皇帝候補フランツ・フェルディナント大公が、妻を伴いサラエボを訪れたのだ。

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  フェルディナント大公にとって不満分子の存在は承知のこと。 だが、国民に対する友好的な姿勢のアピールを優先させた大公は、市内をオープンカーでパレードすることを決め、軍による仰々しい護衛に代えて警察を配置した。前日の新聞には、そのルートさえも紹介された。 次期皇帝の息の根を止めるべく、集まったのはプリンツィプをはじめ7人。 それぞれが沿道の各所で大公の到着を待ちかまえていた。

午前10時、大公を乗せた車がサラエボ駅を出発。 警備がゆるく、『丸裸な』状態にある標的をしとめることは、プロの手によれば楽勝だったかもしれない。 ところが、最初の実行犯が放った手榴弾は、爆発のタイミングが合わず、後続車の周辺で爆発。 随行者の中に負傷者が出たものの大公夫妻には傷ひとつ与えることができなかった。 しかも危機に瀕した一行が市庁舎へとスピードを上げたことから、メンバーらは為す術がなく、暗殺はあっけなく未遂に終わってしまう。

手榴弾を放った同胞はあらかじめ用意していた毒を飲み自殺を図るも、毒が効かず、取り押さえられてしまう。 この失敗は、他のメンバーに大きな動揺を与えた。 グループの中には当日、実行メンバーに加わった学生も含まれており、いわば素人の集団に過ぎなかったのだ。 そんな中で、暗殺の推進役としてプリンツィプは、自分の使命を誰よりも強く意識していた。

しかし、大公を乗せた車が去ってしまった今、彼の中には『計画断念』の文字がすでにちらついていたようだ。 なぜなら、彼はサンドイッチを食べにラテン橋の近くにある軽食店へと趣いているからだ。 暗殺を是が非でも遂行しようとする者としては緊張を欠く行為のようにも思われる。 しかしこのとき、天はプリンツィプの味方をしたとしか考えられない出来事が起こる。

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