第一次世界大戦の轍=03=

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❢❢❢ ヨーロッパを2分する帝国主義勢力 ❢❢❢

それにしても、後に繰り広げられる歴史を知る私たちにとって、世界大戦へと発展するきっかけになるには『ささいな』事件だったとも感じられないだろうか。 たとえば、植民地で宗主国の次期トップが殺害されたとて、それが世界規模の戦争につながるとは考えづらい。 ところが、後述する暗殺事件からおよそ1ヵ月のうちに事態は激変。 ヨーロッパ全体を飲み込む奔流となって流れ始める。 その間に何が起こったのかを探る前に、まずはここから40年ほど前にさかのぼって俯瞰しよう。 前記を足がかりにして・・・・・・・。

ヨーロッパでは、プロイセン王国が普仏戦争(1870~71年)でフランスを倒してドイツ帝国の建国に成功し、強国としての地位を固めていた。 当時の宰相ビスマルクは、復讐に出ることが予想されるフランスを孤立させるため、ロシア、オーストリアなど列強と同盟関係を締結。 その一環で1882年にドイツ、オーストリア、イタリアによる軍事同盟が結ばれていた(独墺伊三国同盟)。 これと並行し、ビスマルクの政策により、経済力そして工業力を高めると、ドイツはフランスを抜いて、英国に次ぐ世界2位の経済大国へとのし上がるまでになっていた。

勢いづくドイツだったが、1890年に転換期を迎える。前々年、ドイツ皇帝に即位したヴィルヘルム2世との意見の対立からビスマルクがその座を引退。 同皇帝は植民地獲得へ向けて動き出し、帝国主義全盛の舞台に遅ればせながら参入した。 これにより、バルカン半島をめぐってロシアとの関係にひびが入ることとなる。

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 1890年、ドイツ帝国の宰相・ビスマルクの辞任にともない、従来のドイツ外交に変化がもたらされた。 これまでのドイツ外交は、フランスの孤立化を重視する観点から対ロシア外交を重視したが(ビスマルク体制)、この年より親政を行う皇帝・ヴィルヘルム2世はこのことに固執しなかった。 そのため、1887年より継続していた独露再保障条約が更新されないことになり、ロシアは新たな同盟相手を必要としていた。 また、国内の近代化推進のためにも外資導入が必要であり、フランスとの同盟樹立は経済的観点からもメリットがあった。 一方、フランス側としてもビスマルク外交時代の孤立から脱することは望ましいことであったため、両国の交渉が進められていった。

その頃のロシアは、現在のウクライナ、ポーランドなどの一部を含む、ユーラシア大陸の北部を広域にわたって支配していた強国。 この広い国土で交通網を充実させるための外資を必要としており、またドイツをけん制する目的からも、新たな同盟先としてフランスに接近した。 ヨーロッパでの孤立から脱したいフランスにとっても好都合であることは明白だった。 そして1894年に独墺伊三国同盟で結ばれた国々を仮想敵国とした軍事同盟が誕生した(露仏同盟)。

この《露仏同盟》のその後の展開は、ドイツ・オーストリア・イタリアといった中欧・南欧諸国を東西から挟撃する体制によって仮想敵を三国同盟(のちの第一次世界大戦ではイタリアが離脱し、東欧諸国およびオスマン帝国などが加わる中央同盟が成立する)に設定した同盟とはいえ、同盟の成立当初においては露仏同盟と三国同盟が必ずしも戦争に至るような対立関係にあったわけではなかったのだが。

当時のヨーロッパ王室・帝室の常としてロシア皇帝ニコライ2とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が縁戚関係だったこともあり、日清戦争後の三国干渉(1895年)をロシア・フランス・ドイツが行ったように、各国ごとの国益によっては連携する余地も存在していた。 むしろ、同盟成立当初においてロシア・フランスの両国にとって懸案だったのはイギリスであった。 ロシアにとっては中央アジア・イランなどでの南下政策の妨げであり、フランスにとっては自国の「アフリカ横断政策」の妨げとなっていたのが3C政策をとるイギリスだったからである。

しかし、ヴィルヘルム2世は世界政策(新航路政策)を掲げ、艦隊法の制定以降イギリスとの建艦競争に突入した上、中東進出(いわゆる「3B政策」)を企図してロシアとの関係も悪化させた。 その結果、露仏同盟は対独同盟としての性格を強め、のちの英仏協商英露協商と結びついて対独包囲網の一角を担うことになった。 ロシアはこの同盟を前提としてフランスからの投資を受けることになった。 1891年より建設に着手するシベリア鉄道も、この時のフランス資本によるところが大きい。 もっとも、この時期における投資の多くはロシア革命によって社会主義政権が成立すると回収不能になった。

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 一方、産業革命を一番乗りで果たし、積極的な植民地政策の結果、多くの領土を従えて繁栄を享受していたのは英国である。 その外交スタイルは、『栄光ある孤立』と称され、非同盟主義を貫いていたが、変更を余儀なくされる。 北アフリカ、中央アジアをめぐりフランス、ロシアとの対立が起こり始め、さらに皇帝ヴィルヘルム2世率いるドイツも植民地獲得に乗り出したからである。

まずは東アジアに手を広げていたロシアをけん制する目的で日本と軍事同盟(1902年、日英同盟)を結ぶかたわら、北アフリカをめぐって確執を深めていたフランスとは協調の道を選び、英仏協商(1904年)を結んだ。また対外進出を活発化させたドイツとの対立が深まると、日露戦争の敗北によって東アジアから後退していたロシアと、中央アジアをめぐる問題で妥協し、協商関係(1907年、英露協商)が結ばれた。

こうしてドイツ、オーストリア、イタリアの同盟国に対抗して、ロシア、フランス、英国という協商条約でつながった勢力が地図上に浮かび上がり、ヨーロッパは大まかに2色に色分けされることになった。 1870年の普仏戦争以降、バルカン戦争(1912~13年)などを除いては、ヨーロッパは比較的平穏な年が続いていた。 もはや国と国とが武器を取り合って戦うなどありえないと豪語するジャーナリストや有識者なども見られた。

列強は、同盟、協商関係を結んでいたし、財政、経済の面でも互いに依存し合っていたからである。万が一、戦争となった場合の互いの不利益を考えれば、『国力の消費戦』など避けたいものだった。 もちろん列強が植民地をめぐって互いに睨みをきかせ、警戒し合っている状況下で、軍事専門家の中には大戦を予想する者がいたのも事実だ。それでもヨーロッパはしばらく戦争から遠ざかっていた。

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===== 続く =====
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