第一次世界大戦の轍=04=

09-13-1

❢❢❢ 向こう見ずのセルビア制裁  ❢❢❢

欧州の列強=それぞれが王侯貴族が政権を担っていた=は、に互い煌びやかな儀礼服の下に鎧を隠し、剣を忍ばせて遠友近攻の政策を推進している中で起こったのがサラエボ事件である。 ボスニア・ヘルツェゴビナは1878年のベルリン会議でオーストリアが占領し、その後1908年には正式にオーストリア領に併合されていた。多くのボスニア住民、特にボスニアのセルビア人住民はこれに反発し、セルビアや他の南スラブ諸国への統合を望んでいた。

オーストリア当局はセルビアにとって重要な祝日である聖ヴィトゥスの日(Vidovdan)にあたる6月28日をフェルディナント大公のサラエヴォ訪問の当日に設定した。 この日はまた、1389年にセルビアがオスマン帝国に敗北を喫したコソボの戦いの行われた日でもあったため、皇太子夫妻の訪問はセルビア人の神経を逆撫でする結果ともなった。

また、6月28日は大公夫妻の14回目の結婚記念日でもあった。 大公の妃ゾフィーはボヘミアの伯爵妃付女官であり、ハプスブルク家は彼女を皇族の一員とは認めていなかった。しかし、大公夫妻ははあくまで意思を曲げなかった。このためゾフィーが皇族としての特権をすべて放棄し、将来生まれる子供には皇位を継がせないことを条件に結婚を承認されていた。

なお、オーストリア政府には事件前に黒手組に関する情報が届けられていたとされるが、当局の対応は極めて杜撰なもので、黒手組の動きを察知していたセルビア政府も、彼らを国境付近で逮捕する命令も出していたが、当の国境警備員が黒手組のメンバーだったために逮捕に失敗してしまった。

※ ; 黒手組は、セルビア民族主義者により1911年に結成された秘密組織・テロ組織。 組織の正式名称は「統一か死か」。 すべてのセルビア人居住地域、特にオーストリア・ハンガリー帝国領であったボスニア・ヘルツェゴビナの併合を目標としていた。 組織のメンバーはみなセルビア民族主義を奉じていることは同じであったが、その中身は様々であった。 クーデターを目論む陸軍将校、理想主義を信ずる学生、時には共和制を目指す者さえいた。 指導者は1903年のクーデターでセルビア国王アレクサンダル・オブレノヴィチを殺害したドラグーティン・ディミトリエヴィチ(暗号名「アピス」)であった。=1914年のサラエヴォにおいてオーストリア皇太子の暗殺に関与した。 このサラエヴォ事件をきっかけとして第一次世界大戦が勃発する。=

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☛ ☞ 皇太子フランツ・フェルディナント大公の暗殺

事件の正確な経緯は明らかとなっていない。 互いに矛盾する目撃者からの情報が錯綜しているのである。午前10時15分に4台の車からなる車列が1人目の暗殺犯ムハメド・メフメドバシッチの前を通り過ぎた。 彼は窓から大公を狙撃しようとしたが、引き金を引かなかった。 10時頃、2人目の犯人*ネデリュコ・チャブリノヴィッチが手榴弾(またはダイナマイト))を大公の乗る車に投げつけたが、爆発に時間差があって後続の車の12名が負傷する。

車列はスピードを上げて市庁舎に向かった。 車が市庁舎に着いた時の映像が残されており、運転手が車の後ろをチェックする様子が映っている。 サラエボ事件当日の映像は、この後の大公らが市庁舎を出る時の映像とこれの2点のみであるガ・・・・・・。

失敗したチャブリノヴィッチは毒を飲み川に身を投げたが、彼は水深が10cmしかない川から引きずり出された後、身柄を警官に拘束されるまで民衆から手ひどい暴行を受ける。 他方、爆発音を聞いて、残りの暗殺犯の数名が持ち場を離れていった。 市庁舎に到着していたフェルディナント大公は予定を変更し、爆発で怪我をした者を見舞いに病院へ向かうことにした。

一方、食事を摂るためにプリンツィプが立ち寄った店の前の交差点で、病院へ向かう大公の車が道を誤り方向転換をした事で、プリンツィプはその車に大公が乗っている事に偶然気がついた。 ちょうどサンドイッチを食べた後だった彼は拳銃を取り出して、車に駆け寄って1発目を妊娠中の妃ゾフィーの腹部に、2発目を大公の首に撃ち込んだ。 大公夫妻はボスニア総督官邸に送られたが、2人とも死亡した。

暗殺に成功したプリンツィプは最初は毒を仰いで、次にピストルで自殺を図ったが、拒否反応で毒を吐いてしまい、ピストルも奪われて自殺できなかった。 当局の尋問の間、プリンツィプをはじめとする暗殺犯たちは黙秘を貫いていたが、ダニロ・イリイッチが自白し、武器がセルビア政府の支給品であったことを告白した。

09-13-2

  スラブ系を含む多民族国家のオーストリアは、民族運動の高揚が自国におよび、統治が乱されることを危惧。 そのため、『黒幕』探しに躍起になっていた。 スラブ主義を掲げる隣国セルビアが、国家主導の下で行ったのではないか―?。

そう思い込んだオーストリアは、7月23日セルビアに対し制裁を加えるべく、最後通牒をつきつけた。 暗殺事件について、セルビア国内での捜査にオーストリアが参加することなどを要求する内容を含む10ヵ条。 独立国に対して厳しすぎるそれには、全面許諾でなければ拒否とみなす条件も付け加えられた。

オーストリア=ハンガリー帝国政府はセルビア政府を非難し、セルビアにとって受け入れがたい要求を含んだ最後通牒を突きつけた。 オーストリア政府はセルビアが48時間以内に無条件で全条件を受け入れなければ宣戦布告することを通告する。 その結果、セルビア政府は二点のみを除いてこの要求を受諾した。 しかし、1914年7月28日、オーストリアは無条件での受諾を求める事前の通告通りセルビアに対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発する事に成ったが・・・・・・。

オーストリアがここまで強硬姿勢を取った背景には、ドイツがオーストリアに対し「もしもセルビアに制裁を加え、ロシアとの間に紛争が起きた場合は、ドイツが支援する」という保証を与えたことがある。 むしろ好戦的な頼もしいドイツの後ろ盾に、オーストリアはセルビア進出を夢見たのだ。 しかし、オーストリアが懸念していた民族問題は、わざわざ軍事力を行使せずとも政策により打開できたかもしれず、また、戦いとなれば、ロシア、フランスが参戦してくることは十分予測された。

最後通牒の回答期限を迎える直前、セルビアは『大部分』を受諾する内容で返答する。 だが、『大部分』では満足できないオーストリアは受け取りを拒否し、7月28日、セルビアに対し宣戦を布告。 浅はかにもセルビアと一戦を交える決定を下した。

09-13-3

===== 続く =====
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