第一次世界大戦の轍=05=

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  ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ(サライェボと書くほうが英語の発音により近い)。第一次世界大戦の発端となったサラエボ事件以外にも、世界史にたびたび登場する。今からちょうど30年前の1984年に冬季オリンピックが開催されたが、ユーゴスラビア崩壊の影響から、旧ユーゴ国だったボスニア・ヘルツェゴビナでは独立をめぐり1992年にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発。およそ4年にわたりセルビア人勢力によって街が包囲され(サラエボ包囲)、多くの市民が命を落とした。

  現在は紛争からの復興が進み、同じくバルカン半島にある世界遺産ドブロブニクと比べると観光地としての人気は劣るものの、近年は欧米からの旅行者が訪れるようにもなっている。街を歩くと、トルコ支配の面影を残す旧市街や、オーストリアの影響を受けた建造物、ユーゴ時代の名残をとどめる住居が建ち並び、重層的な文化の側面が伺える。また紛争による銃弾の跡が各所に残り、街を散策するだけでも、宗教、民族問題が絡む複雑な歴史を感じることができる。

サラエボ事件の現場近くのラテン橋=写真左=は、ユーゴ時代には「プリンツィプ橋」と呼ばれた。オーストリア大公を暗殺したガブリロ・プリンツィプを、『自由の闘志』として英雄視してのことだ。かつては暗殺現場にはプリンツィプの足跡をかたどった記念碑が掲げられていた。また小さな博物館もあったが、サラエボ包囲の際の砲撃と、サラエボ内にいたボスニア人による破壊活動のため失われた。現在、彼を『ヒーロー』とする声と『犯罪者』とする声があり賛否は様々だが、同地には、プリンツィプへの評価とは関係なく、『サラエボの歴史を記す』目的で記念碑と博物館が設けられている。この様子に、発展するサラエボの今を垣間見ることができる。

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 1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の世継、フランツ・フェルディナント大公が、共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナボスニア)の首都サラエボで「青年ボスニア(Mlada Bosna, ムラダ・ボスナ)」のボスニア系セルビア人で民族主義者のガヴリロ・プリンツィプにより暗殺された。オーストリアのレオポルト・ベルヒトルト外相(二重帝国の共通外相)は懲罰的な対セルビア戦を目論み、7月23日セルビア政府に10箇条のいわゆるオーストリア最後通牒を送付して48時間以内の無条件受け入れを要求した。

  セルビア政府はオーストリア官憲を事件の容疑者の司法手続きに参加させることを除き、要求に同意したが、オーストリアはセルビアの条件付き承諾に対し納得せず、7月25日に国交断絶に踏み切った。躊躇するハンガリー首相イシュトヴァーン・ティサと皇帝の反対を押し切る形で、7月28日にセルビアに対する宣戦布告が行われた。

ドイツ政府は、三国同盟に基づいて対応を相談したオーストリアに対し、セルビアへの強硬論を説いた。ロシアの総動員下令を受けて、参謀総長小モルトケはかねてからのシュリーフェン・プランを発動させて8月1日総動員を下令し、同時にベルギーに対し無害通行権を要求した。ドイツ政府は翌2日にロシアに対して宣戦布告し、さらに3日にはフランスに対して宣戦布告した。

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☛ ☞  ロシア総動員とイギリス参戦と各国の対応

ロシア政府は1909年に、オーストリアのボスニア併合を承諾する代わりにセルビア独立を支持することを誓約していた。オーストリアのセルビアへの宣戦布告を受けて、ロシア軍部は戦争準備を主張し皇帝ニコライ2世へ圧力を掛けた。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とロシア皇帝ニコライ2世の間の電報交渉]は決裂。ロシア政府は、部分動員では手遅れになる可能性を想定し、7月31日に総動員令を布告した。ドイツはロシアに動員解除を要求したが、ロシア政府は動員を解除した場合には短期間で再び戦時体制に戻すことは難しいと考えたため、要求に応じなかった。

フランスでは、1914年7月31日に社会党の指導者のジャン・ジョレスが右翼のラウール・ヴィランに暗殺され、8月1日に総動員を下令し、対ドイツ戦を想定したプラン17と称される戦争計画を発動した。8月4日、首相ルネ・ヴィヴィアニは、議会に戦争遂行のための「神聖同盟: Union sacrée」の結成を呼びかけた。議会は、議案を全会一致で可決し、全権委任の挙国一致体制を承認した。

イギリス政府は、ドイツ軍のベルギー侵入を確認すると、外交交渉を諦め、8月4日にドイツに宣戦布告し、フランスへの海外派遣軍の派遣を決定した。また、1867年に自治領となっていたカナダも、宗主国イギリスに従い参戦した。同様にオースrトラリアやニュージーランドも参戦することとなる。

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 日本は日英同盟によりイギリスと同盟関係にあった。開戦に際して、イギリス政府からの要請を受け、連合国側として第一次世界大戦に参戦した。内閣総理大臣大隈重信は、イギリスからの派兵要請を受けると、御前会議にもかけず、議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後には参戦の方針を決定した。
大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部の関係悪化を招くことになる。日本政府は8月15日、ドイツに対し最後通牒というべき勧告を行った。日本政府が参戦に慎重だったことから異例の一週間の期限が置かれたが、結局ドイツが無回答の意志を示したため、日本政府は23日に対ドイツ宣戦を布告した。

イタリアでは参戦に対して、賛否が分かれた。1882年にドイツ・オーストリア・イタリアから成る三国同盟を締結していたが、「未回収のイタリア」と呼ばれたオーストリアとの間の領土問題から亀裂が生じていたからである。同盟では、ドイツとフランスが交戦した場合、軍団をライン地域に派遣することになっていた。これに従って、参謀総長ルイージ・カドルナが軍団派遣を準備し、国王もそれを了承した8月2日、イタリア政府は中立を表明した。 その後、イギリス・フランスと接近し、1915年に連合国側に立ち参戦した。

オスマン帝国は数度にわたる露土戦争においてロシアと対立関係にあり、中央同盟国に加わった。北欧諸国は大戦中一貫して中立を貫いた。1914年12月18日スウェーデン国王グスタフ5世は、デンマーク、ノルウェーの両国王をマルメに招いて三国国王会議を開き北欧諸国の中立維持を発表した。これらの国はどちらの陣営に対しても強い利害関係が存在しなかった。スウェーデンにおいては親ドイツの雰囲気を持っていたが、これも伝統的政策に則って中立を宣言した。ただしロシア革命後のフィンランド内戦において、スウェーデン政府はフィンランドへの義勇軍派遣を黙認している。

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 アメリカ合衆国は当時モンロー主義を掲げ、交戦国との同盟関係は無かった。さらに開戦時にアメリカは中米諸国においてメキシコ革命に介入するなど軍事活動を行っていたため、当初は中立を宣言していた。政府のみならず、国民の間にも孤立主義を奉じる空気が大きかった。大戦中には両陣営の仲介役として大戦終結のための外交も行なっていた。しかし後にルシタニア号事件やドイツの無差別潜水艦作戦再開、ツィンメルマン電報事件を受け、世論ではドイツ非難の声が高まり、1917年に連合国側に立って参戦した。 =ただし、フランスやイギリスが敗北した場合に両国への多額の貸付金が回収できなくなることを恐れたとの見方もある。=

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