第一次世界大戦の轍=11=

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❢❢❢ 西部戦線・塹壕戦の始まり ❢❢❢ 

1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ軍は直ちにベルギーおよびルクセンブルクに侵入し、さらにフランス北東部の工業地域を掌握しようと試みた。 初戦の一連の勝利によってパリ付近にまで攻め寄せたドイツ軍部隊は第一次マルヌの戦いにおける敗北によって、フランス軍の殲滅に失敗し、戦線を後退・整理させた。 この後、スイスからイギリス海峡にいたるまで戦線=西部戦線=が構築され、前線の両側では塹壕が掘り進められた。

掘られた塹壕では、迫撃砲火炎放射器毒ガス戦車戦闘機など新兵器が次々に登場したが、それらはいずれも戦局を変える決定的要因にはならず、西部戦線での戦闘は長期消耗戦の様相を呈した。 この戦線は第一次世界大戦のほとんどの期間を通じて大きく変化することはなかった。

1915年から1917年にかけて、西部戦線においては、両軍とも大規模な攻勢を数回行っている。 それらの攻勢計画では、まず大量の砲弾をもって砲撃が行われ、その後に歩兵による突撃が続く。 しかし巧妙に構築された塹壕線に配置された側防機関銃、有刺鉄線などによって防御側の優勢が確立しており、攻撃側には大量の犠牲者が続出し、攻勢は失敗することが多かった。 この結果として攻勢による前線位置の変化はほとんど生じなかった。

このような行き詰まりを回避しようと、毒ガス・戦車・飛行機などの多くの新兵器が導入されたが、これらの兵器も決定的な優位を生じさせることはできなかった。 この膠着にもかかわらず、戦線がフランス国内に位置していることから西部戦線の重要性については変わることがなかった。 1918年にいたるとドイツ軍の春期大攻勢カイザーシュラハトの失敗やアメリカ軍の参戦などによる連合国軍の戦力的優位により、ドイツ軍司令部が敗北を認識し、1918年11月にドイツ政府が休戦協定を受諾するに至った。

第一次マルヌ会戦の後、両軍はフランス北東部に塹壕を構築し持久戦へと移行した。 両軍が築き始めた塹壕線は、やがてスイス国境からベルギーのフラマン海岸まで続く線として繋がった。 いわゆる「海へのレース」である。 各国の弾薬消費量も戦前の予想をはるかに上回る量となった。 陰鬱な塹壕戦はその後4年間続くが、両軍の軍指導者はそれまでの作戦や戦術を根本的に改めようとはしなかった。

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 ドイツ軍が占領地を防御しようとする一方で、英仏軍は攻勢をとろうと努めた。 英仏軍の塹壕は、ドイツ軍の防御線を突破するまでの一時的なものとしか考えられておらず、ドイツ軍の塹壕は英仏軍の塹壕よりも堅固に構築されていた。 1915年から1917年を通じて、両軍は何百万という死傷者を出したが、英仏軍の損害はドイツ軍の損害を上回った。 1916年のヴェルダンの戦い、そして1916年夏のソンムの戦いにおける英仏軍の失敗により、フランス陸軍は 一時 崩壊の瀬戸際まで追い詰められた。 1917年春のニヴェル攻勢では、無益な正面攻撃でフランス歩兵部隊が大損害を受けたために、戦闘後に抗命事件が発生した。

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☛ ☞   ❝ ヒンデンブルク線 ❞ 

1916年の8月にはドイツ軍の指導部が交代し、ファルケンハインが辞任した参謀総長の職にパウル・フォン・ヒンデンブルクが就任した。 実際の指揮はタンネンベルクの戦いからヒンデンブルクの下で参謀役を務めたエーリッヒ・ルーデンドルフが参謀次長として行った。 ルーデンドルフはヴェルダンとソンムでの戦闘によって、ドイツ軍の攻撃能力が低下していたことから1917年の西部戦線では防御的な戦略をとり、他の戦線において攻勢をかけることを決定した。

ソンムの戦いとその後の冬の期間を利用して、ドイツ軍は前線にヒンデンブルク線と称される要塞群の建設を行っていた。 ルーデンドルフの意図したのは、凹凸が生じている西部戦線を整理し、人的資源にやや劣るドイツ軍でも十分な防御が行えるようにすることであった。 この要塞群はアラスからサン=カンタンまでを繋いでおり、1916年11月にイギリス軍の偵察機によって初めて確認された。

ヒンデンブルク線への後退計画はアルベリッヒ作戦と名付けられた。 翌1917年2月9日に開始された撤退は4月5日に完結した。 ノワイヨンへの攻撃を意図していたフランス軍の計画はこれによって空振りに終わった。 イギリス軍においては、この後退はソンムでうけた損害によるものであるとの主張がなされ、ドイツ軍が疲弊しているとの印象を与えていた。

一方で4月6日にアメリカ合衆国が連合国側に立って参戦した。 これはUボートによる無制限潜水艦作戦の再開や、ツィンメルマン電報事件が原因である。 一時はイギリスの物資補給に深刻な影響を与えていた潜水艦作戦も、護送船団の導入によって被害数が劇的に減少した。 1917年4月にイギリス軍はアラスの戦いを開始したが、ヴィミー山稜の戦いにおけるカナダ軍団およびイギリス軍第5歩兵師団の成功にもかかわらず、戦線拡大は失敗に終わった。

1917年の冬になると、ドイツ空軍の戦術改善が効果を上げ始めた。 ヴァランシエンヌに設置されていた飛行学校における訓練によって、ロッテ戦術と称される2機の戦闘機を用いた戦術が導入された。 これによって英仏軍の戦闘機には多大な損害が生じた。 特にイギリス軍では機体の更新時期にあたり、新兵の訓練も行き届いていなかった為に大きな損害が生じた。 アラスの戦いにおける搭乗員の損失は、ドイツ軍の114人に対してイギリス軍では316人であった。

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☛ ☞  今も残る大戦の遺産 “ 英国の衰退 ”

英国が19世紀にわたって世界の最強国だったことは疑いの余地がない。 産業革命が早期に始まったことで、英国は経済面で他の欧州諸国に先駆けることになった。 米国やドイツをはじめとする各国で、より速い景気拡大ペースが何年間も続いた後、20世紀初期までには英国に追いつきつつあった。
それでも英国は引き続き世界の金融面での優位を保ち、英王室海軍は依然として海洋を支配し、英国が卓越した戦略的地位を維持することを確実にしていた。

第1次世界大戦はすでに始まっていた流れを加速した。 つまり、最強国としての地位が英国から米国に入れ替わることだ。 この戦争で英国の財源は消耗し、米国などに対する債務のために英国は弱体化した。

ピーク時には戦費は英国の国民所得の5分の2に達し、英国は他のどの国よりも多くの戦費を費やした。1917年4月までには英国政府はあと3週間しか資金が続かない可能性があると警告し、米国が支援に乗り出した。この戦時中に、英国の海外投資は徐々に止まり、国際収支の黒字は消滅した。 生産と貿易の仕組みは戦争で中断されており、欧州以外の経済が活発になった。

英国経済は昔ながらの重工業と鉱業に過剰に依存していた。 そして最も重要なことに、英国に恩恵となっていた戦前の秩序が、保護主義に移行するとともに、国際協力が縮小した。  グローバル化の時代の終わりに伴い、英国は軍事的にも金融面でもその歴史的役割を維持できなくなった。

この戦争で、大英帝国の崩壊も加速した。 歴史学者のデビッド・スティーブンソン氏は、新兵や食糧に対する英国の要求は「(英国の植民地だった)ケベックからエジプト、インドにいたる地域で不満を高まらせ、戦後、騒乱が相次ぐ下地が生まれた」と書いている。 戦後間もなく、アイルランドが英国から分離した。

英国は第2次世界大戦後まで、世界の5分の1を支配する帝国を維持していた。しかし英国の支配力の全盛は既に過ぎていた。

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===== 続く =====
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