第一次世界大戦の轍=12=

09-21-1

❢❢❢ 米国軍の参戦 ❢❢❢

アメリカ合衆国は長い間モンロー主義に基づき、ヨーロッパでの国際紛争には関与しない孤立主義を取っていた。 しかし1917年の初めにドイツが無制限潜水艦作戦を再開したこと、さらにツィンメルマン電報事件が発覚したことで、ドイツに対する世論の怒りが湧き上がり国交断絶に至った。 さらに大統領ウッドロウ・ウィルソンは連邦議会へ対ドイツ宣戦を要請し、上院は82対6、下院は373対50をもってこれを決議、1917年4月6日にアメリカはドイツへ宣戦布告した。

ウィルソンは、オーストリアとは別途平和を保ちたいと考えたが、オーストリアはドイツとの関係を捨てなかったため、アメリカは1917年12月にオーストリアに対しても宣戦布告した。

アメリカ陸軍と州兵はメキシコの「山賊」パンチョ・ビリャを追いかけるために、既に1916年に戦時体制を取っており、それが動員を速めるのに役立った。 連合国艦隊に参加するため大西洋各地に艦隊を送った。 しかしアメリカが西部戦線へ陸軍兵力を送り込むことが可能になるまでには時間が必要だった。 英仏はアメリカ軍の歩兵を英仏軍部隊へ分散させて配属させることを主張したが、アメリカ遠征軍(AEF)の指揮官ジョン・パーシング将軍はこれを承諾しなかった。 だが、パーシングは英仏軍ではとうに使われなくなっていた正面攻撃戦術に固執し、結果としてアメリカ遠征軍は1918年夏と秋の作戦で非常に高い死傷率を経験する事に成る。

☛ ☞   ❝ ドイツ軍の春季攻勢 ❞ 

ドイツ軍は、ボリシェヴィキ政府と講和したことで、東部戦線から西部戦線へ部隊を転進させることができるようになった。 西部戦線へ送り込まれるドイツ軍の増援と、新しく連合軍に加わるアメリカ軍とによって、戦争の最終結果は西部戦線で決定されることになった。 ブレスト=リトフスク条約で中央同盟国が占領した領土が小さかったなら、ドイツ軍はより多くの兵力を西部戦線へ投入でき、戦争の結末も違っていたかもしれない。

ドイツ参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフは、アメリカ軍の到着により、これ以上長引く戦争に勝利することはできないことを悟っていた。 更に、戦争の長期化によりヨーロッパ全土で社会崩壊と革命の可能性が高まることを恐れるようになった。 しかし、東部戦線からの増援と新しい歩兵戦術の使用により、西部戦線での迅速な攻勢によって決定的な勝利を得ることに大きな望みを賭けていた。

作戦は英仏両軍の中間に攻勢をかけて分断し、イギリス軍を北に圧迫してドーバー海峡へと追いやることを目標としていた。 決定的な勝利を得るために、浸透戦術の徹底、飛行機の活用、詳細な砲撃計画、毒ガスの大規模な使用が図られた。

09-21-2

 浸透戦術 ; 1914年、第一次世界大戦初頭の悲惨な経験は、散開隊形に軍配を上げた。 ドイツ軍のある部隊が攻撃を行ったところ、散開隊形だった15コ中隊2250名のうち2225名が生き残ったが、密集隊形だった残り1コ中隊は150名のうち半数が死傷した。  14年の終わりまでには、全軍に散開隊形が採用されるようになっていた。 しかし西部戦線の高度に発達した鉄道網と陣地線に対抗するには、散開隊形でもってしても限界があった。 ドイツ軍においては、手榴弾坑道戦毒ガス火炎放射器と次々に採用してなんとか突破の糸口を見つけようとした。

①  散兵線の前進ではなく小隊規模の突撃隊による奇襲突撃へ変える、
② 攻撃前進間、敵を制圧するため支援兵器を使う、
③ 手榴弾を装備した部隊で塹壕を掃蕩

1916年2月、突撃隊はヴェルダンで本格投入された。 フランス軍縦深陣地への突破戦闘は、砲兵ではなく、歩兵の仕事として大部分が残っていた。そして分散化されたフランス防御戦術に対抗するために、ドイツ軍はかれら自身の攻撃戦術も分散化させなければならなかった。 分散化のさらなる進展のある側面はフランス人が「浸透」と呼ぶものとなった。 連合軍側は浸透戦術と呼ぶことに固執したが、ドイツ軍は歩兵大隊が使うさまざまな兵器の「協同」と表現した。

ドイツ軍の総司令官を務めるエーリッヒ・フォン・ファルケンハインは、既に西部前線の突破は不可能となったと思っていた。 争に勝利するためには、フランス軍に対して耐えきれないほどの死傷者を与えることが必要であると考えた彼は、消耗戦の考えに則って攻撃を計画した。

この攻勢計画においては2つの戦略が導入された。 一つめは無制限潜水艦作戦の実行である。 これは主にアメリカ合衆国より供給されていた英仏軍の糧食を遮断することを目的としている。 もう一つはフランス軍に対する「効率的な」攻撃である。 地形的にフランス軍が不利な地区において攻撃を仕掛け、それによって敵の死傷者数対自軍の損耗比を最大にすることを意図とした。 攻撃目標としては、フランス軍が戦略上およびプライドの観点から絶対に撤退することのできない箇所を選定した。 結果としてパリへの直線進路にあたる町ヴェルダンが選出され、作戦名「処刑場」(Gericht) が開始された。

ファルケンハインは攻撃を行う前線の幅を3キロから4キロに制限した。 これによって火力の集中が可能になり、さらにフランス軍の反攻も難しくなる。 予備部隊を前線背後に控置し、即座に前線に送れるよう鉄道網を整備した。 攻撃前には航空機をヴェルダン付近に集中させ、フランス軍の偵察を不可能にするために制空権を確保しようと試みた。 しかし5月にフランス軍において最新式の戦闘機が導入されたため、両空軍の間に激しい消耗戦が展開されることになった。

09-21-3

 風雪による9日間の遅延の後、ヴェルダンの戦いは1916年2月21日に開始された。 熾烈な8時間の事前砲撃の後にドイツ軍はヴェルダン要塞の周囲に配置されている堡塁群に接近していった。 火炎放射器などを用いたドイツ軍に対してフランス軍は激しく抵抗したが、ドゥオモン要塞が占領された。 しかしフランス軍に増援が到着し始め、2月28日にはドイツ軍の進撃が鈍り出した。
ドイツ軍は目標をル・モルトンム丘に転換し、5月にはこの丘の占領に成功した。 ドイツ軍はジホスゲンガスなどを用いて6月7日にヴォー要塞を攻略し、ヴェルダンから1キロの位置にまで迫ったが、ロシア軍(ブルシーロフ攻勢)、イギリス(ソンムの戦い)およびイタリア(第六次イゾンツォの戦い)の他戦線での攻勢により攻撃を止めた。

1916年の8月にはドイツ軍の指導部が交代し、ファルケンハインが辞任した参謀総長職にパウル・フォン・ヒンデンブルクが就任と前節で記述した。 1961年以降の戦況は、激しい消耗戦と化す。 1916年7月1日から同11月19日までの“ソンムの戦い”を経て、その後の冬期間を利用して、ドイツ軍は前線にヒンデンブルク線と称される要塞群の建設を行っていた。

ルーデンドルフの意図したのは、凹凸が生じている西部戦線を整理し、人的資源にやや劣るドイツ軍でも十分な防御が行えるようにすることであった。 この要塞群はアラスからサン=カンタンまでを繋いでおり、1916年11月にイギリス軍の偵察機によって初めて確認されたものだが、欧州の西部戦線は長期の膠着状態に両陣営は腐心していた。

1918年3月21日、1918・春季攻勢の緒戦であるミヒャエル作戦が発動された。 ドイツ軍は英仏両軍の間隙を突くことに成功し、8日間の戦闘により65キロもの前進に成功した。 パリ東方100キロに到達したドイツ軍は、1914年以来初めてパリを砲撃の射程圏内に収めた。 3門の超大型列車砲パリ砲』がパリに183発の砲弾を撃ち込み、多くの市民がパリから脱出した。 ィルヘルム2世は3月24日を国民の祝日であると宣言した。 ドウツ人の多くが勝利を確信した。

同月にフランス軍の将軍ロベール・ニヴェルは新たな攻勢計画を指令している。 後にニヴェル攻勢と称されることになったこの攻撃計画においては、一週間の準備砲撃に後に120万人の兵士が戦車と共に進撃することになっていた。 この時点ではドイツ軍が制空権を手中に収めており、ニヴェルの提唱した移動弾幕射撃の効果は思ったほどあがらなかった。

ヒンデンブルク線における堅固なドイツ軍防御陣地に突撃した兵士の多くが死傷した。 一週間の内に10万人もの死傷者が出た事実に加え、事前にニヴェルが成功を予告していた事が災いし、フランス軍部隊の間に不穏な空気が広がっていった。

09-21-4

☛ ☞  今も残る大戦の遺産 “ 米国の台頭 ”

米国は1913年には既に世界一の経済大国だった。その総生産は英国をしのぎ、ドイツの2倍余りに上った。大戦前の鉄鋼生産がフランス、ドイツ、英国の3カ国の合計を上回っていたことからも、その経済力は明白だ。

大戦により米国経済はさらに優勢になった。一方「勝ち組」の英国とフランスを含む欧州の経済大国の衰退には拍車が掛かった。

米国は1917年になってから参戦したが、ドイツに対する形勢逆転に決定的な役割を果たした。米国は戦時中に連合国の主要債権国になった。
米国が大戦にかけた費用は英国の次に多かったが、活力にあふれ、より規模の大きな経済のおかげでそうした費用を消化することができた。米国の債権国としての役割が同国の金融市場を活気づかせ、ニューヨークは10年ほどでロンドンにかわる世界の金融センターに成長した。

米国が世界の列強の仲間入りを果たしたことを印象づけたのは1919年のパリ講和会議だった。ウィルソン米大統領の提唱した民族自決主義が欧州大陸の地図を塗り替える後押しになった。

09-14-2

===== 続く =====
前節へ移行 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/09/20/
後節へ移動 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/09/22/

※ 下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

                         *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;歴史小説】 ameblo.jp/thubokou/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中