第一次世界大戦の轍=15=

09-24-1

❢❢❢ 休戦交渉と皇帝退位問題 ❢❢❢

ドイツ参謀本部が戦争の短期終結を目指して立案したシュリーフェン・プランは、フランス軍との戦線全域に渡って泥沼の塹壕戦に陥ったことで挫折した。 国内で独裁的地位を固めた軍部は、この膠着状態を破り、継戦能力を維持するために、あらゆる人員、物資を戦争遂行に動員する体制、エーリヒ・ルーデンドルフ参謀次長の提唱した、いわゆる「総力戦」体制の確立に突き進んだ。

これは一方では、戦争による経済活動の停滞と相まって、国民に多大な窮乏と辛苦を強いることとなり、戦局の悪化とともに軍部への反発や戦争に反対する気運の高まりを招き、平和とパンをもとめるデモや暴動が頻発した。 1917年3月12日に勃発したロシア革命とその成功はドイツの労働者を刺激し、1918年1月には全国規模の大衆的なストライキが行われた。 また一時ドイツと連合国の仲介役に当たっていたアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領の「十四か条の平和原則」に代表される公正な講和のアピールは、政治家にも和平への道を選択させることとなった。

1918年3月からの西部戦線におけるドイツ軍の攻勢は失敗し、8月には連合国軍の反撃により逆に戦線を突破され始めた。 ドイツの敗北が決定的となったことで、ベルギーのスパにおかれていた大本営は9月29日、ウィルソン大統領を仲介役とする講和交渉の開始を決定した。 この決定を受けて首相ゲオルク・フォン・ヘルトリングは辞任し、議会多数派のドイツ社会民主党(SPD)の支持を受けた自由主義者のマックス・フォン・バーデン大公子内閣が成立した。

マックス大公子はアメリカと連絡を取り、1918年10月にアメリカを介した連合国との講和交渉が開始された。アメリカ側は前述の十四カ条の平和原則に基づく講和の条件として、ドイツ帝国の専制色を解消することを求めた。 これに反発したルーデンドルフが交渉継続に反対するという事態が起きたが、マックス大公子は皇帝ヴィルヘルム2世に迫ってルーデンドルフを解任、後任にヴィルヘルム・グレーナーが就任した。

その後憲法改正による議院内閣制や普通選挙などの導入が行われたが、アメリカ側が皇帝の退位を求めているという情報がチューリヒ在住のアメリカ領事からもたらされた。 ウィルソン自身は皇帝の退位を求めたことはなく、また想定もしていなかったが、10月25日頃からは皇帝の退位問題が講和の前提として公然に語られるようになった。

Zentralbild Die Revolution in Deutschland 1918 Am 4. November 1918 kam es zu Befehlsverweigerungen innerhalb der deutschen Flotte. Kundgebungen zur Beseitigung des Krieges schlossen sich an. In dieser, f・ die Regierung kritischen Situation, waren der Rechtssozialist Noske nach Kiel geschickt um die Revolution im Keime zu ersticken. UBz.: Blick auf eine Friedenskundgebung der Matrosen in Kiel.

Zentralbild
Die Revolution in Deutschland 1918
Am 4. November 1918 kam es zu Befehlsverweigerungen innerhalb der deutschen Flotte. Kundgebungen zur Beseitigung des Krieges schlossen sich an. In dieser, f・ die Regierung kritischen Situation, waren der Rechtssozialist Noske nach Kiel geschickt um die Revolution im Keime zu ersticken. UBz.: Blick auf eine Friedenskundgebung der Matrosen in Kiel.・・・・・・・・・・・・・・・

この情勢の動きを見てマックス大公子の政府も皇帝退位の方針を固めつつあったが、ヴィルヘルム2世とその周辺はあくまで退位に反対した。 10月29日に皇帝はベルリンを離れて大本営のあるスパに向かい、後を追ってきたマックス大公子の退位要請も拒絶した。

☛ ☞  レーテ蜂起

1918年10月29日、ヴィルヘルムスハーフェン港にいたドイツ大洋艦隊の水兵達約1000人が、イギリス海軍への攻撃のための出撃命令を拒絶し、サボタージュを行った。 この出撃は自殺的な無謀な作戦であったとされるが、実態には論評の余地があるとされる。 海軍司令部は作戦中止をもたらしたサボタージュの兵士たちを逮捕し、キール軍港に送った。

11月1日、キールに駐屯していた水兵たちが仲間の釈放を求めたが、司令部は拒絶した。 11月3日には水兵・兵士、さらに労働者によるデモが行われた。 これを鎮圧しようと官憲が発砲したことで一挙に蜂起へと拡大し、11月4日には労働者・兵士レーテ=評議会、ソビエトとも訳される=が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧した=キールの反乱=。

レーテは政府が派遣した社会民主党員グスタフ・ノスケを総督として認め、反乱は一応鎮静化した。 しかしこの後キールから出た水兵や労働者によって事件はたちまち広まり、5日にはリューベックブルンスビュッテルコーク、6日にはハンブルクブレーメンヴィルヘルムスハーフェン、7日にはハノーファーオルデンブルクケルン、8日には西部ドイツすべての都市がその地に蜂起したレーテの支配下となった。

11月7日から始まったバイエルン革命ではバイエルン王ルートヴィヒ3が退位し、君主制廃止の先例となった。このような大衆的蜂起と労兵レーテの結成は、11月8日までにドイツ北部へ、11月10日までにはほとんどすべての主要都市に波及した。 総じてレーテ運動と呼ばれ、ロシア革命時のソビエト(評議会)を模して組織された労兵レーテであるが、ボリシェビキのような前衛党派が革命を指導したわけではなく、多くの労兵レーテの実権は社会民主党が掌握した。

09-24-3

☛ ☞  人民委員評議会政府成立

11月9日、首都ベルリンの街区は、平和と自由とパンを求める労働者・市民のデモで埋め尽くされた。 これに対してマックス大公子は、革命の急進化を防ごうと独断で皇帝の退位を宣言し、政府を社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトに委ねた。しかしベルリン各地では複数のレーテが結成され、事態は一向におさまる気配をみせなかった。

この時、カール・リープクネヒトが「社会主義共和国」の宣言をしようとしていることが伝えられると、エーベルトとともにいた社会民主党員のフィリップ・シャイデマンは、議事堂の窓から身を乗り出して独断で共和制の樹立を宣言した=ドイツ共和国宣言=。 その日の内にヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、後日退位を表明した。

その後の11月10日、社会民主党、独立社会民主党(USPD)、民主党からなる仮政府「人民委員評議会」が樹立された。 一方、ベルリンの労兵レーテは人民委員評議会を承認したものの、独立社会民主党の左派である革命的オプロイテが半数を占める大ベルリン労兵レーテ執行評議会を選出し、ドイツにおける最高権力をゆだねることを宣言し、二重権力状態が生まれた。

同夜、共産主義革命への進展を防ぎ、革命の早期終息を図るエーベルトのもとに、グレーナー参謀次長から電話があり秘密会談がもたれた。 その結果として、エーベルトらは革命の急進化を阻止し、議会の下ですみやかに秩序を回復すること、そしてこれらの目的達成のための実働部隊を軍部が提供することを約束した協定が結ばれた=エーベルト・グレーナー協定=。

ドイツ軍は旧来の将校組織を温存する保障を獲得し、人民委員評議会政府を支援することとなった。 また旧来の官僚組織を温存し、社会民主党員を派遣することで行政機構を維持しようとした。 また一方では、首都の治安を守るためにクックスハーフェンから呼び寄せた水兵とベルリンの水兵による「人民海兵団」が結成された。しかし海兵団には次第に革命的オプロイテが浸透し、左傾化していくことになる。

11月11日、ドイツ代表のマティアス・エルツベルガー、グレーナーらが連合国との休戦条約に調印し、第一次世界大戦は公式に終結した。 後にパウル・フォン・ヒンデンブルクが言明し、ナチ党などが流布したいわゆる匕首伝説、すなわち第一次世界大戦で、依然として戦争遂行の余力があったドイツを、国内の社会主義者、共産主義者とそれに支持された政府が裏切り、「勝手に」降伏した、もしくは「背後の一突き」を加えたことによりドイツを敗北へと導いたとするデマゴギーが生まれ、共和国を破滅に追い込むこととなる。

革命以後はバイエルンで右翼勢力が支持されるようになり、1919年にバイエルンで社会主義者たちが革命を起こしてバイエルン・レーテ共和国を樹立する。 しかし成立後すぐさま軍の討伐を受けて消滅している。 他方、レーテの運動はミュンヘンでのナチス結成につながっていく。 ナチスの台頭である。中央政府から圧力を受けたグスタフ・フォン・カールがベルリン進軍を日和見するようになったのを見てヒトラーは右翼の人望厚きエーリヒ・ルーデンドルフ将軍を担いでミュンヘン一揆を起こすこととなるのである。

Revolution in Berlin, Soldaten im Kampf

 ☛ ☞  今も残る大戦の遺産 “化学兵器”

毒ガスは塹壕、病気、機関銃、大量の死傷者と並び、第1次世界大戦の最も忌まわしい遺産の一つに数えられる。化学兵器は1914~18年の大戦より前から存在し、それを禁止しようとする取り組みには微々たる効果しかなかった。

フランス軍は開戦当初の数カ月間にドイツ軍に対して非致死性の催涙弾を使用した。初めて致死性の化学兵器が大々的に配備されたのは1915年4月22日、ベルギーのイプレスだった。目撃者によると、ドイツ軍はフランス軍とアルジェリア軍に向けて6000余りの高圧シリンダーから黄緑色の塩素ガスを散布した。兵士たちはろうばいして逃げ出した。

フランスと英国もその後すぐに化学兵器を配備した。戦争指導者らは科学者に致死性が高く、効果的なガスの開発を命じた。この大戦で最も恐れられた化学兵器であるマスタードガスは、1917年に初めて使用された。はじめは気づきにくいが、そのうちに吐き気を催し、皮膚と粘膜をただれさせて呼吸困難を生じる。一時的に失明状態になる例も多い。

1918年までに12万4000トン前後の化学物質が使用されて推計9万人が命を落とし、100万人を超える負傷者が出たとされている。ロシアが最も甚大な被害を受けたようだ。生存者の多くは生涯、呼吸器疾患に苦しむことになった。視力が永久に失われた人もいる。

その恐ろしい効果から、化学兵器の使用は1925年のジュネーブ議定書で禁止された。意外なことに、化学兵器が第2次世界大戦で大量に使用されることはなかった。米国とソビエト連邦は冷戦中に兵器を大量に備蓄した。フセイン政権下のイラクはマスタードガスと神経ガスをイランと自国のクルド人に対して使用した。

第1次世界大戦のガス攻撃の脅威はいまだに人々の背筋を凍らせる。2013年8月にダマスカス郊外の反体制派の牙城に化学兵器を使用したとしてシリア軍が非難されると、米国はアサド政権に空爆をちらつかせた。血を血で洗うシリア内戦で初めてのことだった。

09-24-5

===== 続く =====
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