第一次世界大戦の轍=16=

Hindenburg auf dem Schlachtfeld bei Tannenberg [1. Weltkrieg]

❢❢❢ 休戦協定 ❢❢❢

ドイツでは人的資源が枯渇し、経済的、社会的な混乱は頂点に達していた。 反戦運動は頻繁に発生し、陸軍の士気は低下した。 工業生産は1913年に比べて53パーセント落ちていた。ドイツに敗北が切迫しているというニュースはドイツ軍全体に広がった。海軍提督ラインハルト・シェアとルーデンドルフは、艦隊を出撃させて起死回生を図ることとしたが、出撃の情報がキール軍港の水兵まで届くと、水兵の多くは非公式の外出をとった。 つまり自殺の企て以外の何ものでもないとしか思えない攻撃に参加することを拒絶したのだった。

11月4日になると処罰に不満を持ったキールの水兵らが反乱を起こし=キールの反乱=、その後も各地でレーテ(評議会、ソビエトとも訳される)の結成と暴動が相次いだ。 バイエルン王国などの帝国諸邦では相次いで君主制が廃止され、帝国の秩序は崩壊し始めた。 11月9日、バーデンは皇帝自身が心を決める前に、皇帝が退位する予定だと発表し、さらに社会民主党のフリードリヒ・エーベルトに後継首相の座をゆだねた。 エーベルトらは事態の収拾をどのように行うか協議していたが、極左派のスパルタクス団が社会主義共和国を宣言するという噂が流れ出した。

フィリップ・シャイデマンは機先を制するため、独断で帝国議事堂の最上階のバルコニーからドイツは共和国になると宣言した=ドイツ共和国宣言=。 その日の内に皇帝はオランダに亡命し、後日退位を表明した。 結果として帝制は崩壊し、新しいドイツが生まれた。 これがヴァイマル共和政(ワイマール共和国)である。

休戦交渉は共和政政府によって引き継がれており、1918年11月7日にパリ郊外コンピエーニュの森で休戦協定交渉が開始された。 1918年11月11日、食堂車2419D=休戦の客車=の車内において、ドイツと連合軍との休戦協定が調印され、11月11日午前11時に軍事行動は停止された。 同日、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝カール1世が国事不関与声明を行い、二重帝国も崩壊した。

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❢❢❢ 東部戦線 ❢❢❢ 第一次世界大戦への視座を過日に移して=

1914年8月に勃発した第一次世界大戦において、中央ヨーロッパから東部ヨーロッパにかけて構築された戦線を東部戦線と言う。 前記の西部戦線が塹壕線で膠着した一方で、東部戦線の戦況は流動的なままであった。 緒戦でロシア軍はオーストリア領ガリツィア・ロドメリア王国(東ガリツィア)およびドイツ領東プロイセンへ進攻したが、東プロイセンではタンネンベルクの戦いでドイツ軍に大敗した。 この敗北以後、ロシア軍が積極的な攻勢に出ることは少なくなり、独墺軍の優勢のまま戦線は長期化した。

ロシア軍はブルシーロフ攻勢においてオーストリア=ハンガリー帝国軍を相手に勝利を収めるが、他に目立った戦果は挙げられず、軍の近代化の面で一歩先を行くドイツ軍に対し、次第に圧迫されていく。 1917年、戦争による経済疲弊などで国民の不満は高まり、遂にロシア革命が起こる。 3月、皇帝ニコライ2世は退位し、10月になってボリシェビキが政権を掌握する。

ボリシェビキ政府は即座に中央同盟国側との休戦交渉を開始するが、交渉が停滞するうちに反ボリシェビキのウクライナ人民共和国が同盟国側につき、中央同盟国との戦争は再開され、ボリシェビキ政府は窮地に立たされた。 1918年3月、ボリシェビキ政府と同盟国との間で、中央同盟国への広大な領土を割譲するという厳しい内容のブレスト・リトフスク条約が結ばれ、東部戦線は終結した。 ・・・・・・・・さて、東部戦線を俯瞰したが、その細部を眺めてみよう。

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☛ ☞  東部戦線・緒戦、東プロイセン方面

ドイツ軍の考えていたシュリーフェン・プランはロシア軍の動員の遅さを前提としていたが、この予想に反して8月中旬にはロシア軍は動員を完了した。 1914年8月17日、ロシア西北正面軍の第1軍はスワルキー地方から独領東プロイセンに進攻し、グンビンネン付近の独軍陣地を攻撃。 同第2軍は8月19日ナレウ河谷から東プロイセンに進入し、ドイツ国境守備隊を駆逐しつつ前進していた。

グンビンネンの戦いの敗戦により新しく東プロイセン独軍司令官となったヒンデンブルク大将はロシア第1軍、第2軍の不連携に乗じて各個撃破を計画した。 すなわちロシア第1軍に対しては後備1個軍団及び騎兵1個師団のみをあてて防御し、グンビンネン付近にいた現役2個軍団を招致して主力をもってロシア第2軍を殲滅しようという案である。

ドイツ軍は2個軍団をもってタンネンベルク付近に陣地を構築し、グンビンネン付近から鉄道で移動した2個軍団を各1個軍団宛陣地の両翼に使用して露第2軍を包囲しようとした。 露第2軍は8月26日からタンネンベルク付近の陣地を攻撃していたがドイツ軍に包囲される。 30日、ついに湖沼森林地域に追い詰められた露第2軍はほとんど殲滅された。

この間北方にいた露第1軍はアルレ湖畔に停止し、第2軍を救援するという積極的な行動を起こさなかった。ロシア第1軍がなぜ第2軍を助けなかったかについて、ソ連ゼンコウィチは「第1軍が第2軍に協力援助を与えなかった主要な原因は、正面軍司令部の誤った状況判断と時機を逸した命令部署に他ならない。 そしてこれらは連絡と敵情偵察が不十分であった結果として起こったものである。」と述べている。

独ヒンデンブルク将軍はタンネンベルク勝利後、兵を北方を移動させ露第1軍を殲滅しようと決し第一次マズーリ湖攻勢を開始した。 ドイツ軍は不意にロシア軍の左翼に出てこれを包囲しようとしたが、ロシア第1軍は第2軍と同じ失敗を恐れて自国内へと撤退した。

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❝ “タンネンベルクの戦い”の背景と結果 ❞

英仏連合軍はロシアが東部戦線を形成してくれることによって西部戦線においてドイツ軍を食い止める事ができると計画していた。 しかしロシアの鉄道網の整備の不徹底によって満足に兵を輸送できなかった。 また南のオーストリア、極東の日本の存在によりロシアの東部戦線への干渉は限られたものとなった=ただし日本は1914年8月23日に連合国としてドイツに対して宣戦布告している=。

一方ドイツ側はロシアを第一の脅威と認識していた。 ドイツのシュリーフェン・プランはフランスを可能な限り早く降伏させた後、鉄道によって兵を東部戦線に輸送するという発想に基づいていた。 ドイツ第8軍はケーニヒスベルクに位置しており、ロシアは第1軍をケーニヒスベルクの東に、第2軍を南に位置していた。 特に第2軍はポーランド突出部として知られる場所に配置されていた。

ロシア側の作戦ではパーヴェル・レンネンカンプ指揮下の第1軍が東プロイセン、特にケーニヒスベルクにおいて攻勢を行う予定であった。 アレクサンドル・サムソノフ指揮下の第2軍がヴァルミア=マズールィ周辺へと西進したあと北上してドイツ軍をケーニヒスベルクにて孤立化させる予定であった。

この戦いの結果、ドイツの勝利により、ロシアの第1軍は東プロイセンからロシア領内へ撤退した。 しかしロシアの東プロイセン侵攻はドイツ軍に西部戦線から2個軍団を抽出することを強要した形となり、大戦においてはマルヌ会戦においてフランス軍を立ち直らせる原因の1つとなった。

皮肉なことに、この西部戦線から移送された軍団はタンネンベルクの戦いには間に合わなかった。 しかし戦役は1週間後に起きる第一次マズーリ湖攻勢へと続き、ドイツ第八軍に対してロシア第一軍のみで対峙しなければならなくなったロシアは、開戦前の国境地帯まで撤退を余儀なくされた。 そしてソ連時代の第二次世界大戦が終わるまで、この地を取り返すことは叶わなかった。

この勝利はホフマンの軍功としてではなく、ヒンデンブルクとルーデンドルフの軍功として、ドイツ国民に喧伝された。 上記のごとく、1917年以後のルーデンドルフの独裁やヴァイマル共和国大統領ヒンデンブルクの出現がこのタンネンベルクの英雄というイメージに基づくものであったことは言うまでもない。

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 ☛ ☞  今も残る大戦の遺産 “戦闘機”

第1次世界大戦の開戦前はパイロットの主な目標は飛行機をできるだけ長く航行させることだった。 ライト兄弟による1903年の記録は12秒。 1913年にはプロペラが前についた、今にも壊れそうな単葉機で、ローラン・ギャロスがフランス南部からチュニジアまで8時間の飛行を成し遂げた。

終戦を迎えるまでには、これが根本的に変わった。飛行機は必要不可欠な軍事兵器だと認識されるようになった。また、旅客と郵便物を乗せた飛行機がロンドンとパリの間を定期的に往復するようにもなった。 1919年6月には英国の飛行士ジョン・アルコックとアーサー・ブラウンが第1次世界大戦の爆撃機を改造した飛行機で初めて大西洋無着陸横断に成功した。2013年までには、世界の航空旅客数が20億人を超えるまでになった。

第1次世界大戦に投入された飛行機はもともと地形の偵察に加え、当然ながら敵軍の位置を探るために使われた。1914年8月に世界大戦へと戦争が拡大した際、ドイツ軍は200機の飛行機を保有していた。 東部戦線に配備された飛行機は偵察任務を担い、タンネンベルクの戦いでドイツがロシアに勝利する一助となった。 ロシア第2軍はドイツ軍の素早い動きについていけず、ほぼ壊滅した。

フランス軍は参戦時に140機の飛行機しか保有していなかったが、終戦を迎えるまでの間に6万8000機を製造した。だが、その4分の3は戦闘で破壊された。 より速く、より機敏に飛べるようになるに連れて、飛行機は敵軍や敵機に対する兵器として利用されるようになった。そして戦闘機が互いに撃ち合うアクロバット的な空中戦が激化していった。 少なくとも5機の敵機を撃ち落とした優秀な戦闘機パイロットはたいてい「エース」と呼ばれるようになった。 最も有名なエースは「レッドバロン(赤い男爵)」の異名を持つ、ドイツのマンフレット・フォン・リヒトホーフェンだ。終戦間際に撃墜されて戦死したが、それまでに80機を撃ち落としたという。もう1人の有名なエースは同じくドイツのハインリヒ・ゴンターマン。

ギャロスは1914年にフランス空軍に入隊した。 エースと呼ばれるほど敵機を撃墜したわけではなかったが、機銃の命中率を高めるためにプロペラの回転面内を通して射撃を行う方法の開発を手助けした。 1915年にはギャロスの戦闘機が撃ち落とされ、ドイツ軍の捕虜となったが逃亡し、フランス軍に戻った。しかし1918年に再び撃墜され、戦死した。

テニスの全仏オープンが行われるホームコートの名前はギャロスが由来となっている。 1928年にラグビーのスタッド・フランセが全仏テニス連盟に土地を売却した際の条件だったからだ。

その後、戦闘機同士による空中戦は第2次世界大戦の結果を左右するほど重要なものとなった。英国空軍が接戦の末にドイツ空軍に勝利した1940年のバトル・オブ・ブリテンが第2次大戦の勝敗の分かれ目だったと見られているようだ。今日では、戦闘で航空機を使うことが先進諸国の間ではしばしば最初の選択肢となっている。目標を定めたミサイル攻撃は「クリーン」で、地上戦よりもリスクが小さいとみられている。 これまでのところ、この戦術の最たるものは、敵の上空を見つからないように高く飛行するドローン(無人飛行機)の利用だ。 ドローンは偵察のほか、正確な奇襲攻撃も可能だ。

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