第一次世界大戦の轍=18=

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☛ ☞  1916 ロシアのブルシーロフ攻勢

3月12日の連合軍軍事会議において、ヴェルダンでフランス軍と激戦を繰り広げているドイツ軍に対してイギリス軍とロシア軍が牽制攻撃することが決定される。 ロシア軍は5月15日頃攻撃に出ることとなった。 仏ジョフル将軍の要請により3月以降66個歩兵師団、9個騎兵師団半をもってリガ方面で牽制的攻勢を実施したが、思うような戦果を得ることができなかった。 さらにロシア南西方面軍は6月4日ガリツィアにおいて、ロシア西方正面軍は6月18日ピンスク北方地域において一大攻勢を実施した。

6月4日のロシア西南方面軍の作戦がいわゆるブルシーロフ攻勢と呼ばれるものである。 ブルシーロフ将軍は1916年4月南西正面軍に任命されてガリツィアでの攻勢を計画したが、これまでのロシア軍攻勢の失敗をよく分析して準備した。 まずオーストリア軍を混乱させるため攻撃準備射撃は計画的に行う。 つまり砲撃はランダムに小休止をませてオーストリア兵が塹壕から出られないようにする。全線でこれと同じ砲撃の方法をとって主攻撃がどこかを悟られないようにして効果的に予備隊を使うのを妨げた。

それから多くの線で自軍塹壕を墺軍塹壕から50mあたりまで掘り進め、速

やかに前進できるよう前線近くに予備隊が置かれた。 またオーストリア軍の塹壕モデルが作られてロシア歩兵はこれによって訓練した。 航空写真などによる墺軍砲兵位置の把握などもなされた。

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 6月12日までに捕虜約20万人、火砲216門、機関銃645挺を獲得して大成功をおさめたが、ロシア軍夏季攻勢の主攻撃たる西方正面軍の攻勢は思わしい結果を残せなかった。 しかしながらこの攻勢はドイツ軍の予備兵力を吸引することができ、またオーストリア軍のアジアーゴの戦い(トレンティーノ攻勢)を一時牽制してイタリア軍の危急を救うことができた。

ブルシーロフ攻勢については「ブコビナ地方とガリツィア東部を占領して35万の捕虜を得たが、好機を逃したあとのだらだらとした攻勢によって100万兵以上の兵が戦死した。 この損失はロシア軍の精神的戦闘力を崩壊させ、その結果として革命と瓦解を招いた」との意見がある。

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❢❢❢ ルーマニア戦線 ❢❢❢

ルーマニア戦線とは、第一次世界大戦における、ルーマニア王国の参戦とこれを支援するロシア帝国軍、及び中央同盟国との戦闘を指す。  =

☛ ☞  ルーマニア参戦経緯

ホーエンツォレルン家出身の君主カロル1によって統治される新生ルーマニア王国は、王家の故郷プロイセンを含むドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国イタリア王国の三国による三国同盟に加わっていた。しかしバルカン半島を切っ掛けに欧州が不安定化して第一次世界大戦が勃発すると、ルーマニアは同盟条約を破棄して中立を宣言した。ルーマニア政府は戦争はオーストリアの侵略行為によるもので、相互防衛の範疇には含まれないと強弁した。一方で、カロル一世は縁戚のドイツ帝国と親密な関係を結んだ。

1914年10月、カロル1世が急死し甥のフェルデナンド1世が即位した。 新国王の妃マリヤヴィクトリア女王の孫であり、イギリス人だった。 この妻の影響で、ルーマニアは急速に連合国側に傾いて行くことになる。また、当時のルーマニア首相イオン・ブラティアヌはもともと親仏論者(若い時期にフランスに留学していた)であり、積極的に連合国にたった参戦を追求していた。

戦争の進展につれて、両陣営は盛んに中立国への参戦工作を繰り広げる様になった。 ルーマニアにも連合国から打診が行われ、ルーマニアはかつての同盟国オーストリアの領土であるトランシルヴァニアを要求した。 民族的なルーマニア人オーストリア人が混在していたトランシルヴァニア地方の併合を連合国は受託し、1916年の初めにブカレスト秘密協定が結ばれた。 実際にルーマニアが参戦したのは同年の8月だったが、その数ヶ月前に行われたブルシーロフ攻勢は状況に大きな影響を与えた。

参戦に関して、ベッサラビアへの領土欲も覗かせていたルーマニアにロシアが強い不快感を抱いて、彼らの参戦に反対したという説がある。 またイギリスの軍史家ジョン・キーガンは「第一次世界大戦」の中で、連合国は終戦後に秘密協定を反故にしてルーマニアの領土的野心を無視する事を決めていたという。

ルーマニア政府は1916年8月17日に連合国に参加を表明し、8月31日にオーストリア=ハンガリー帝国のみに宣戦布告した。 しかし、その1週間以内に他の同盟国全てから宣戦布告される。 ブルシーロフ攻勢で戦った両軍がそれぞれ50万名前後であった事を考えれば、60万名を越えるルーマニア軍は一大戦力と言える。 しかしルーマニア軍の軍備は、ロシア軍やオーストリア・ハンガリー軍に比較しても見劣りするものであり、三分の一は輜重兵で、かつ予備役と現役の区別が兵士では判然としなかった。

農繁期には一部を除隊させねばならない状態で近代的な国民皆兵軍と呼ぶには無理があった。 一般兵士はおろか将校でも、字が読めない者がいる有様で、近代的戦術を実行する能力は皆無と見なされていた。地勢的にルーマニアは敵の4国から集中攻撃を浴びかねないにもかかわらず、援軍はロシア帝国しか期待できなかった。 そしてそのロシアはルーマニアに援軍を送る余力はなく、またルーマニア軍に何も期待していなかった。

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 イギリスホレイショ・キッチナー陸軍大臣はルーマニア参戦を強く推進した人物の一人で、クリストファー・トンプソン中佐をルーマニアに特使として派遣した。 しかしキッチナーの思惑とは反対にルーマニア軍を視察したトンプソンは、仮想敵国であるオーストリア=ハンガリー軍とブルガリア軍に勝てる余地は無く、むしろルーマニア軍は連合軍にとっての荷物になるだろうと判断した。

報告を連合国陣営は認めようとせず、1916年8月13日に連合国とルーマニアの間で正式な軍事協定が結ばれた。後に空軍大臣を務めることになるトンプソンは同年の内にルーマニア軍によって生じた連合軍の被害を抑える役目を担う事になった。彼はルーマニア国内の油田地帯を破壊して、同盟軍によるルーマニア占領の利点を最小限に留める成果を挙げている。

ドイツ帝国はブルガリアと共に同盟国オーストリアを救うべく直ちに行動を起こし、戦線が安定化していた中東のオスマン帝国が助力を申し出た。 情勢を詳しく把握していないドイツ軍は、大軍であるルーマニア軍の参戦を単純に脅威と捕らえる向きがあった。 パウル・フォン・ヒンデンブルクは当時の日記に「ルーマニアのような小国がこれほどの重要な役割を与えられた事は世界史上に例の無い事だろう。ドイツとオーストリアは20分の1の人口しかない国に命運を握られたのだ」と記述している。

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 ☛ ☞  今も残る大戦の遺産 “機関銃”

1916年7月1日、西部戦線のソンム河畔に掘られた英国軍の塹壕でホイッスルが鳴り響いた。「総攻撃」の合図だった。兵士たちは塹壕の壁をよじ登り、サッカーボールを蹴ったり、ステッキを持ったりしながら進撃した。その時点までに、味方の砲撃がドイツ軍に大きなダメージを負わせていると確信していたからだ。だが、待ち受けていたのはドイツ軍の機関銃だった。

最初の1時間が過ぎる頃には英国軍の「第一陣」の約半数が死亡もしくは負傷した。日暮れまでに、2万人を超える英国軍兵士が戦死した。軍事歴史家ジェームズ・ウィルバンクス氏はこの日を「英国軍の歴史上、最悪の日」と呼んだ。 ウィルバンクス氏によると、ドイツ軍のある兵士は、狙いを定める必要がなかったと話したと記録されている。 敵軍兵士を素早く、しかも大量に殺りくできる機関銃の能力は近代の戦争の様相を一変させた。

この兵器は1800年代に発明され、初期のものは米国の南北戦争で使用された。しかし、それ以前には想像もできなかったほどの規模で、機械仕掛けの大量殺りく兵器として戦地に投入されたのは第1次大戦が初めてだった。初期の頃の機関銃は自動ではなく、手動だった。だが、20世紀の戦場を支配する兵器への道はここで開かれた。第1次大戦までに、機関銃は1分間に最大450発から600発を発射する完全に自動化された兵器となった。

米国生まれの発明家ハイラム・マキシムが1884年に自動式の移動可能な機関銃を初めて世に送り出した。ソンムの戦いで英国軍を壊滅させた兵器の原型がここにできあがった。マキシムはまず英国軍に機関銃の提供を打診したが、英国軍はできたばかりの兵器には目もくれなかった。 しかし、ドイツ軍はマキシムのテクノロジーを基に、MG08重機関銃を製造した。1914年までに、ドイツ軍は1万2000丁の機関銃を保有していた。一方のフランス軍と英国軍は数百丁しか保有していなかった。

翌世紀にかけて次々と新しい設計で性能を高めた機関銃は、歩兵が持つ軽機関銃、軍艦や戦闘機に搭載される重機関銃など、形の違いこそあれ戦場にはあたりまえの武器となった。

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===== 続く =====
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