第一次世界大戦の轍=19=

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☛ ☞  ルーマニア参戦/ トランシルヴァニア侵攻

第一次世界大戦の勃発以来ルーマニアは中立を守っていたが、中央同盟国協商国との戦いの間で漁夫の利を得ようと参戦の機会を虎視眈々と狙っていた。 1916年連合国の夏季攻勢が始まってから、特にブルシーロフ攻勢の戦果はルーマニアを刺激し、これによってルーマニアは協商国側に立って参戦することに決めた。 ロシアはこれに喜んだが、ルーマニアの戦備不足は思わぬ結果を残すこととなる。

第一次世界大戦前、本来ルーマニア王国はオーストリアとドイツの同盟国だった。 しかし1914年、サラエヴォ事件を発端に世界大戦が起こるとルーマニアは参戦義務を破って中立を宣言した。 戦争はオーストリアの侵略行為によるもので、相互参戦の義務は無いと強弁した。 戦争の中盤、結局ルーマニアは大戦に参加するが、それは独墺の同盟国としてではなく敵としてであった。

連合国は秘密交渉で戦後にオーストリアにルーマニアと争っていたトランシルヴァニアを割譲させると約束した。 同地は確かにルーマニア系に分類される住民が多数を占めていたが、オーストリアの方針でドイツ化が進められていた。  結局 8月27日、ルーマニアは同盟国側に対して宣戦布告した。

8月15日夜、国境地帯に進撃を開始した3個軍からなるルーマニア軍はカルパティア山脈の弱体な防備を潜り抜けた。 殆ど戦力に余裕の無いオーストリア軍師団の散発的な抵抗が続く中、ルーマニア軍は事前に策定したトランシルヴァニア攻撃作戦「ハイポセシス・ゼータ」に基づいて、戦略的に重要なムレシュ川を目指した。 計画では迅速な進撃が求められていたが、ルーマニア軍部隊は低速で進んだ為に8月16日にブラショフを通過して、9月4日にオルト川を横断、9月中旬に漸くシビウ周辺に辿り着いた。

同じ頃、ルーマニア軍の要請を受けてロシア軍が3個師団を北ルーマニアに送ったが、物資不足などからトランシルヴァニアの戦いには参加しなかった。 敵側の同盟国もブルガリア軍がオーストリア軍の為に援軍を派遣していたが、ドイツのアウグスト・フォン・マッケンゼン将軍は彼らを率いて南ルーマニアの守備隊を撃破して国境要塞を占領した。 トランシルヴァニアにもドイツ軍の師団が到着、ルーマニア軍は独墺軍の反撃で撃退され、それ以上先に進めなくなった。 ルーマニア軍はトランシルヴァニアの占領地区で防御を固め、攻勢用の一部部隊を南部のブルガリア軍に派遣している。 以降、ルーマニア軍のトランシルヴァニア作戦は攻勢から防戦へと早変わりして、連合国にとって厄介な荷物となった。

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 エーリッヒ・フォン・ファルケンハインはドイツ第9方面軍の司令官に抜擢され、ルーマニア軍を防戦から退却へと更に退かせる役目を負った。 9月18日、ドイツ第9方面軍はハツェグ(Haţeg)に展開していたルーマニア第1方面軍を撃破した。 続く8日後にルーマニア軍は反攻作戦としてシビウ攻略を再開したが、守備についていた山岳部隊に敗北して失敗した。 そして10月4日にはドイツ第9方面軍の攻撃にブラショフに駐屯するルーマニア第2方面軍が撃破され、残ったルーマニア第4方面軍は戦わずに山岳地帯へ逃走した。 10月25日までにルーマニア軍は攻撃で得た領土全てを放棄して攻勢前のラインに戻ってしまった。

反撃の後、追撃を開始したファルケンハインと独墺軍はルーマニア国境の山岳地帯で、ルーマニア軍の防戦力を試す為の陽動攻撃を行った。 11月10日にルーマニア軍守備隊を弱体と判断したファルケンハインは総攻撃を行い、ルーマニア軍は惨敗して国境を突破された。 11月26日、ルーマニア守備隊は降伏して独墺軍はワラキア地方を占領、首都ブカレストに迫った。

ルーマニア軍の攻撃はトランシルヴァニア占領の失敗に加え、逆にワラキアを占領されるという惨めな結果に終わった。 ルーマニア軍は圧倒的な数的優位だけでなく、戦略的な有利も与えられていたにも関わらず大敗した。 ルーマニア遠征軍の司令官アレクサンドル・アヴェレスクは「進む時はなんら困難は無くゆっくり進んだが、戻る時には多くの困難を味わった」と述懐している。

独墺軍の司令官エーリッヒ・フォン・ファルケンハインはルーマニア軍の侵略を押し返して首都に攻め返す功績を挙げ、マッケンゼン軍と合流してルーマニア軍の残余を粉砕した。 最終的にルーマニアは25万人の兵士と領土の3分の2を失った。 この作戦によってルーマニアの豊富な小麦と石油が同盟軍に奪い取られ、参戦に期待をもっていた連合国側は物質上の利点を失うだけでなく心理的にも大きな敗北を喫した。

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❢❢❢ ロシア革命の足音 ❢❢❢ 

ロシアでは1861年の農奴解放以後も農民の生活向上は緩やかで、封建的な社会体制に対する不満が継続的に存在していた。 また、19世紀末以降の産業革命により工業労働者者が増加し、社会主義勢力の影響が浸透していた。 これに対し、ロマノフ朝絶対専制ツァーリズム)を維持する政府は社会の変化に対し有効な対策を講じることができないでいた。 1881年には皇帝アレクサンドル2世が暗殺されるなどテロも頻繁に発生していた。

日露戦争での苦戦が続く1905年1月には首都サンクトペテルブルクで生活の困窮をツァーリに訴える労働者の請願デモに対し軍隊が発砲し多数の死者を出した=血の日曜日事件=。 この事件を機に労働者や兵士の間で革命運動が活発化し、全国各地の都市でソヴィエト(労兵協議会)が結成された。 また、黒海艦隊では「血の日曜日事件」の影響を受け戦艦ポチョムキン・タヴリーチェスキー公のウクライナ人水兵らが反乱を起こしたが、他艦により鎮圧された。

同艦に呼応した戦艦ゲオルギー・ポベドノーセツは、指揮官により座礁させられた。 また、その約半年後同様にしてウクライナ人水兵らが反乱を起こした防護巡洋艦オチャーコフでも、戦闘ののち反乱勢力は鎮圧された。 この時期、ロシア中央から離れたセヴァストーポリやオデッサなど黒海沿岸諸都市やキエフなどで革命運動が盛り上がりを見せた。 なおこの年の9月にはロシアは日露戦争に敗北している。

 こうした革命運動の広がりに対し皇帝ニコライ2世十月勅令ドゥーマ(国会)開設と憲法制定を発表し、ブルジョワジーを基盤とする立憲民主党(カデット)の支持を得て革命運動の一応の鎮静化に成功した。

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 1906年にドゥーマが開設されると、首相に就任したストルイピンによる改革が図られたが、強力な帝権や後進的な農村というロシア社会の根幹は変化せず、さらにストルイピンの暗殺(1911年)や第一次世界大戦への参戦(1914年)で改革の動きそのものが停滞してしまった。

一方、労働者を中核とした社会主義革命の実現を目指したロシア社会民主労働党は方針の違いから、1912年にウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキゲオルギー・プレハーノフらのメンシェヴィキに分裂していたが、ナロードニキ運動を継承して農民の支持を集める社会革命党(エスエル)と共に積極的な活動を展開し、第一次世界大戦においてドイツ軍による深刻な打撃(1915年- 1916年)が伝えられるとその党勢を拡大していった。

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☛ ☞  今も残る大戦の遺産 “シークレットサービス”

1914年11月6日の夜明け、カール・ハンス・ローディ、別名チャールズ・A・イングリスは看守に連れられ、ロンドン塔の庭に出た。数分後、彼は銃殺隊に射殺された。ロンドン塔で処刑が行われるのは1世紀以上ぶりだった。 罪状はエディンバラ近くに駐留していた英国艦隊でドイツのスパイとして働いていたことだった。

ローディは第1次世界大戦時にロンドン塔で処刑された11人のスパイの最初の1人。工作活動は第1次大戦をきっかけに急速に進化し、今や国家が支援する数十億ドルの産業となっている。しかし、1914年当時はまだ原始的だった。大戦勃発時に情報部が使用していたテクニックの多くは立証されたものではなく、多くの場合、知的なものではなかった。

スパイの1人、カール・フリードリヒ・ミューラーはあぶり出しインクとしてレモンジュースを使用し、ドイツに秘密情報を送ろうとした。しかし、拘束され、ロンドン塔で処刑される2人目のスパイとなった。 中には首尾よく任務をやり遂げた者もいた。英国政府が運営するMI-5の公式サイトに掲載された記録によると、ドイツは第1次大戦中、英国に120人以上の「偵察要員」を送り込んでいた。うち捕まったのはわずか65人。

拘束されたスパイは当初、公の場で裁きを受けていた。そのため、戦争の脅威が自国にそこまで迫っていることを信じられない英国の人々は激怒した。それを受け、政府は第1次大戦中にMI-5のスタッフを約50倍の844人まで増員した。

英国社会へのドイツ人潜入の脅威の高まりに対抗するため、MI-5の前身である「秘密情報局」が1909年に設置された。 戦争勃発までには英国のスパイ網はフランスやベルギーの敵陣の背後で活動していたが、ドイツ国境への潜入には苦戦していた。しかし、第2次大戦開戦までにはその状況は変わっていた。外国での情報収集を担う「秘密情報部」が創設された。MI-6として知られる組織だ。

米国の参戦時の欧州での情報収集能力は限られていたが、やがてスパイ網を発展させ、冷戦時代に入ってもそれを維持していた。 しかし、米国がより懸念していたのは自国内のスパイだった。米議会は1917年、「スパイ活動法」を可決。戦争活動の妨害になりかねない機密情報を漏えいした人物を最大20年の禁錮刑に処することができるようにした。 第1次大戦時は大規模な組織立った工作活動はまだ初期段階にあったが、当時開発されたテクニックの多くは残りの20世紀において世界中の政府にとって不可欠なものとなった。

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