第一次世界大戦の轍=20=

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☛ ☞  二月革命の勃発と二重権力の成立

サラエヴォ事件をきっかけに1914年に勃発した第一次世界大戦は、ヨーロッパの大国を巻き込み 各国の総力戦へと突入していた。 ロシア帝国セルビアとの相互条約によりオーストリアとドイツに宣戦布告し、オーストリア方面での緒戦に勝利したものの、対ドイツ戦では1914年のタンネンベルクの戦いおよび翌年のゴルリッツの戦いを始めとして敗北が続き、国内では長く苦しい戦時生活に対する不満の念が高まっていた。

ツァーリに対する農民の尊敬は変わることがなかったが、ラスプーチンが影響力を保持するドイツ出身のアレクサンドラ皇后へは表立った中傷が行なわれるなど、国内の不安定要因が見え隠れしていた。

国際婦人デーであった1917年2月23日、ロシアの首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)で、食料配給の改善を求めるデモが行われた。 このデモは数万人規模にまで拡大したものの、初めのうちは穏健なものであり、首都の治安を担当するハバーロフ将軍も警官隊と騎兵隊の投入で十分であろうと考えていた。しかしデモの規模は更に拡大し、市内の労働者の大半が参加するようになった。 前線のニコライ2世は、ハバーロフに対してデモを鎮圧するよう命令した。 26日、市内中心部のネフスキー大通りのデモに警官隊が発砲し、市民に多数の死傷者が出た。

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 この事件に対し、パブロフスキー連隊に所属する兵の一部が反乱を開始した。 市内に駐留する他の連隊では反乱兵の鎮圧と、労働者側への参加で混乱していた。 連邦議会下院議長ミハイル・ロジャンコは大本営にいる皇帝に向け、首都が無秩序状態にあること、速やかに新たな内閣を組織し、民衆の不満を静めるよう要請した。 この連絡を受けたニコライ2世はイヴァーノフ将軍に対し数個連隊を首都へと差し向け反乱を鎮圧するように命じた。

翌日になると他の連隊の帰趨も決定されていた。 ボリンスキー連隊では兵士が下士官を射殺し、街へ逃走し始めた。 夕方までにさらに他の連隊が反乱に加わり、反乱兵の規模は数万人に達していた。 トロツキーの『ロシア革命史』によると、蜂起に参加しなかったのはその暇がなかった部隊だけであった、とある。 反乱兵と労働者は内務省・軍司令部・警備隊司令部・警察・兵器庫などを襲撃し、武器を手に入れていた。 ハバーロフ将軍は海軍本部の建物に篭城を試みたが、兵の脱走は止まらず、部隊はすぐに解散した。 27日にはモスクワで、3月初めには他の都市でも革命が始まり、軍の部隊もそれに同調しつつあった。

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☛ ☞  ソヴィエトの結成とボリシェヴィキの台頭

国会の解散を皇帝に命じられた議長ロジャンコは、これらの混乱を見て国会議員12名からなる臨時委員会を設置した。 皇帝への忠誠にも関わらず、ロジャンコは翌日早朝委員会をもって政権を掌握することを決定し、2月28日には各省庁を接収した。

この頃、メンシェヴィキ=右派社会主義党派=に所属する議員や労働者代表などにより、1905年と同様なソヴィエト=労働者・農民・兵士の評議会=の結成が呼びかけられていた。 同日夜の会議で臨時委員会メンバーのメンシェヴィキのニコライ・チヘイゼが議長に、臨時委員会メンバーで当時革命派議員の有力者と目されていた社会革命党の国会議員ケレンスキーを副議長にしてペテルブルクのソヴィエトが結成された。 同時に選出された執行委員15人の内、急進的な革命を唱えるボリシェヴィキ=暴力革命を志向し、中央集権主義の党派=は2名のみであった。

1918年3月16日、二月革命ロシア臨時政府が成立した。 連合軍がロシア臨時政府に対し東部戦線における攻勢を要求してくると、4月20日にミリュコフ外相は勝利後のボスポラス海峡ダーダネルス海峡の割譲を条件に7月攻勢に出ることを連合国に対して独断で約束した。

二月革命で成立した臨時政府の実権は、社会革命党ドゥーマ議員でペトログラード・ソヴィエトの副議長にもなったアレクサンドル・ケレンスキーが握っていた。 戦争に疲れ和平を求める兵士らに対し、陸軍大臣を兼務したケレンスキーは第一次世界大戦の継続を主張した。 二月革命と前後して前線では脱走兵が急増していたが、それでもなおロシア軍の兵力は650万人と同盟軍を上回っていた。

6月16日、彼はドイツ帝国およびオーストリア・ハンガリー帝国に対してガリツィアで攻撃を開始する。 緒戦で東ガリツィアで独墺軍の前線を崩壊させた。 この勝利にもかかわらず兵士の士気低下で戦線は崩壊し7月2日に作戦は失敗に終わった。 7月6日には逆に独軍と墺軍の反攻が始まりロシア軍は後退に追い込まれ、8月にはドイツ軍のリガ攻勢によりリガを奪われる。

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 フォン・フーチェル指揮のドイツ第8軍は各方面から増援を得て、リガを目指して渡河作戦を行った。 攻撃部隊の開進は攻撃開始9日前より開始され、第1線の後方約40kmから前方地帯への運動は夜間において実施した。 攻撃正面に展開した砲兵の数は157個中隊、迫撃砲520ないし570門であり、攻撃開始前陣地に進出した後所要地点に試射を完了した。 優勢な砲兵と毒ガス弾によってロシア軍砲兵は制圧され、ドイツ軍は楽々と渡河できた。 4日までにドイツ軍はリガを占領し、ロシア軍に多大な損害を与えることができた。

このドイツ軍のリガ攻勢の敗退をきっかけに、ロシア兵士らの戦争への不満と労働者らの飢餓や苦境への不満が爆発した。 7月3日から7月7日にかけ、ペトログラードではボリシェヴィキに率いられた労働者や兵士らが街頭へ出て臨時政府に対する蜂起を開始した。 ペトログラード沖合の海軍基地の島クロンシュタットからは水兵20,000人ほどが武装してペトログラードへと行進し、ソヴィエトへの権力集中を求めた。 ペトログラードとモスクワの労働者らも蜂起し事態は大きくなった。 ペトログラードでは市街戦が起こったが、臨時政府は軍を指揮して蜂起を鎮圧した。

しかし、ロシアで革命前に進行していた急速な工業化など社会的・経済的変化により、農業を中心にした伝統的な社会は打撃を受けて揺らぐ一方、医師・法律家・技師・ホワイトカラーといった専門家層や教育を受けた中産階級がロシア国内では台頭していた。 こうした新たな市民が力を増し、生活の改善を求めたことは、革命が爆発する上での下準備となっていた。

また、第一次世界大戦での兵士の不満もロシア社会に衝撃を与えていた。 次なる十月革命の原因となった。 この戦争でロシアでは戦死者が増え、工業や経済は行き詰まり、市民生活は貧窮にあえいだ。 こうして市民は為政者へ怒りをぶつけ、帝政を転覆する二月革命へと至ったのだが、その後、臨時政府とソヴィエトが並び立つ二重権力状態が誕生し混乱が続いた。 人々は様々な政治勢力の中でも、強い指導者になりうることを証明しロシア社会の変革を約束したボリシェヴィキに対して支持をよせるよう政治の風が吹いていた。

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☛ ☞  今も残る大戦の遺産 “電気通信”

電話と電報は、宣戦布告の時点で民間、軍隊ともに最も活用された通信手段だった。いずれも戦中に改良され、セキュリティーが強化されたほか、無線通信も大幅に進化した。その後、前線での活用向けに開発された技術は1920年代のラジオ放送の開始につながった。 開戦時には、英軍は長距離通信向けには電報、前線では電話を使用していた。発明の一つに電話回線のセキュリティーがある。初期の電話は単に地中に埋められた電線を使ったが、敵軍にとって電話を盗聴し、敵の計画を知ることはさほど難しくなかった。

13年にアルゲノン・クレメント・フラー大尉が発明した「フラーフォン」は、低電圧線を用いて信号を傍受しにくくした上に、シンクロナイズされた頻度で信号をオフ、オンにすることでこれを細かく分ける電話機セットを導入した。 これによってシグナル傍受はほぼ不可能になったため、軍隊は第2次大戦でもこの技術を活用した。

第1次大戦中に特に発展した通信手段は無線で、空中戦争に欠かせない技術が開発された。 英リーズ大学の博士研究員、エリザベス・ブルトン氏は「第1次大戦は、特に航空機や大砲の位置確認で無線通信の完成につながった」と述べた。

開戦時の航空機はほぼ「エンジンの付いた箱形のたこ」のようなものであり、主に大砲偵察に用いられた。大砲の射程距離が兵士たちが見える距離を超えるためだ。航空機には翼を横向けたり、旗を振ったり、紙に書いたメッセージを落としたりする以外に地上部隊に着弾場所を伝えるための通信手段がなかった。ブルトン氏はこの工程について「目隠しをしてダーツをする」ようなものと称した。

無線通信、つまり電線ではなく空中を介してモールス信号を送信することは、そもそも開戦の約15年前に発明された未発達の技術だった。 火花送信機を備えた重い機械に依存したこの技術は、信号を送るための電磁波の放射に火花を必要としたため、引火する可能性のある燃料を大量に積んだ小型複葉機には実用的でなかった。 これを変えたのが電子管の工業生産だった。
16年になると、英陸軍航空隊は無線通信機器の開発に取りかかったが、これは航空機から地上基地に着弾場所を伝えられることを意味した。これは一方向通信という初期段階にあったものながら、基地の隊員は旗を振ることで応答することもできた。 18年までには、英国は航空機同士の無線通信という数年前には考えられなかった手段を得た。戦後には、この第一世代の無線通信者はアマチュア無線が広がる起源となり、ラジオ放送のきっかけをもたらした。

電報も戦争の肝要な部分を占めた。英軍が開戦後間もなくドイツの海中電報ケーブルを破壊したことは、ドイツに信頼性の乏しい無線通信の使用を余儀なくさせる要因になった。 17年1月には、英国はツィンメルマン(ジマーマン)電報を傍受したが、これは米国の参戦という戦争の重大な局面でもあった。当時のドイツのアルトゥール・ツィンメルマン外相は米国のドイツ大使にメキシコ向けメッセージを送信し、英国のシーレーンを攻撃する計画を示した。メキシコと組んで同国に米国の領土占領を促す意向のものだ。

英国はデンマークとスウェーデンの中立ケーブルを通じて電報を傍受したため、このことを隠す必要があったと伝えられている。 スノーデン事件からグーグルの誕生まで、通信の分野で100年前に発明され、普及した手法は現在も巨大な余波をもたらしている。

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===== 続く =====
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