第一次世界大戦の轍=21=

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❢❢❢ ロシアの十月革命 ❢❢❢

1917年の二月革命で成立した臨時政府の実権は、社会革命党ドゥーマ議員でペトログラード・ソヴィエトの副議長にもなったアレクサンドル・ケレンスキーが握っていた。 戦争に疲れ和平を求める兵士らに対し、陸軍大臣を兼務したケレンスキーは第一次世界大戦の継続を主張した。  6月16日、彼はドイツ帝国およびオーストリア・ハンガリー帝国に対してガリツィアで攻撃を開始するが=ケレンスキー攻勢=、緒戦の勝利にもかかわらず兵士の士気低下で戦線は崩壊し7月2日に作戦は失敗に終わった。 7月6日には逆に独軍と墺軍の反攻が始まりロシア軍は後退に追い込まれ、8月にはドイツ軍のリガ攻勢(前節参照)によりリガを奪われた。

この攻勢失敗をきっかけに、兵士らの戦争への不満と労働者らの飢餓や苦境への不満が爆発した。 7月3日から7月7日にかけ、ペトログラードではボリシェヴィキに率いられた労働者や兵士らが街頭へ出て臨時政府に対する蜂起を開始した。 ペトログラード沖合の海軍基地の島クロンシュタットからは水兵20,000人ほどが武装してペトログラードへと行進し、ソヴィエトへの権力集中を求めた。 ペトログラードとモスクワの労働者らも蜂起し事態は大きくなった。 ペトログラードでは市街戦が起こったが、臨時政府は軍を指揮して蜂起を鎮圧した。

この蜂起の後、臨時政府はボリシェヴィキが反乱を煽ったと非難し、ウラジーミル・レーニングリゴリー・ジノヴィエフを含むボリシェヴィキの指導者は逮捕を避けるために潜伏を強いられ、一時的にボリシェヴィキの勢力は後退した。 7月から8月にかけてボリシェヴィキは準合法的な活動に終始したが、ロシア政界のなかで最左翼にあるという政治的位置はますます強固なものとなった。

社会民主労働党のうち過激な反戦派が1917年初頭に結成したメジライオンツィ (レフ・トロツキーアドリフ・ヨッフェ、コンスタンチン・ユレーネフらが所属した地区連合派) はボリシェヴィキと距離を置きつつ共同歩調をとっていたが、8月初めのボリシェヴィキ党大会でボリシェヴィキに統合された。 メジライオンツィの指導者たち、特にトロツキーは労働者や兵士らに対して鼓舞を行っており、ヨッフェも後に「蜂起のための実際的な組織が行う活動のすべては、ペトログラード・ソヴィエト議長トロツキーにより指揮されるようになった」と書いている。

これを兵士らの圧倒的な支持を受けるトロツキーと、それを脅威に感じるスターリンとの間の権力闘争の始まりであり、ヨッフェとユレーネフは後に革命路線を支持して武装蜂起の準備と実行に関わり、ボリシェヴィキのペトログラード制圧に死活的な役割を果たした。 スターリンの粛清に繋がって行く。

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☛ ☞ コルニーロフ事件

1917年8月から9月にかけてコルニーロフ事件が起こったが、これもボリシェヴィキの勢力復活に大きな役割を果たし、十月革命の触媒となった。 臨時政府軍の総司令官ラーヴル・コルニーロフ将軍は、混乱する大ロシアを立て直すためにはより信頼に足る軍事指導者が必要と考えており、臨時政府とソヴィエトの両方に属するケレンスキーと対立しつつあった。ケレンスキーはコルニーロフを総司令官に任命したが、そのすぐ後にコルニーロフを、自ら軍事独裁を行おうとしているとして批判した。

コルニーロフが実際に独裁の陰謀をめぐらしていたかについては現在も定かでない部分が多い。 コルニーロフはケレンスキーがボリシェヴィキの脅迫や強要の下で動いていると考え、全てのロシア国民に対して「死につつあるロシアの大地を守れ」と呼びかけて決起を行った。コルニーロフ将軍のクーデターに直面したケレンスキーは、臨時政府の軍人たちを信頼することができず、ボリシェヴィキの赤衛隊などの武装勢力に救援を要請し、武器まで彼らに供与した。コルニーロフのクーデターは、ボリシェヴィキの説得を受けた兵士やコサック兵らがコルニーロフを見捨てたことにより流血に至らないまま失敗に終わり、コルニーロフとその支持者ら7,000人ほどが逮捕された。

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☛ ☞ 軍事革命委員会

1917年10月10日、ボリシェヴィキの中央委員会は投票を行い、10対2で「武装蜂起はもはや避けられず、その期は十分に熟した」という宣言を採択した。 ペトログラード・ソヴィエトは10月12日に軍事革命委員会を設置した。 これは元々はペトログラードの防衛を目的として少数の右派社会主義者(メンシェヴィキ)が提案したものだったが、武装蜂起のための機関を必要としていたボリシェヴィキは賛成した。

トロツキーは「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説し、あからさまに武装蜂起の方針を認めた。 10月25日彼は権力掌握を承認させるために、10月25日に開会する予定の第二回全国ソヴィエト大会の時期に合わせて蜂起することを主張した。 メンシェヴィキは軍事革命委員会への参加を拒否し、委員会の構成メンバーはボリシェヴィキ48名、エスエル左派(社会革命党左派)14名、無政府主義者4名となった。

前後して軍の各部隊が次々にペトログラード・ソヴィエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなくソヴィエトの指示に従うことを決めた。 1917年10月23日、ボリシェヴィキの指導者の一人でエストニア人のヤーン・アンヴェルト(Jaan Anvelt)は、革命後に創設されたエストニア自治政府の首都タリンで左翼革命勢力を率いて武装蜂起を開始した。 10月24日、最後の反撃を試みた臨時政府は、忠実な部隊によってボリシェヴィキの新聞『ラボーチー・プーチ』『ソルダート』の印刷所を占拠したが、軍事革命委員会はこれを引き金として武力行動を開始した。

これに対する抵抗は少なく、赤衛隊はほぼ流血なしでペトログラードの印刷所、郵便局、発電所、銀行などの要所を制圧し、10月25日に「臨時政府は打倒された。 国家権力は、ペトログラード労兵ソヴィエトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備軍の先頭に立つ軍事革命委員会に移った」と宣言した。

臨時政府の閣僚が残る冬宮に対する占領は25日午後9時45分、防護巡洋艦アヴローラの砲撃を合図に、ウラジーミル・アントーノフ=オフセーエンコ率いる部隊が進入して始まった。 冬宮はコサックや士官学校生、女性部隊により防衛されていたが、ほとんど抵抗らしき抵抗はなく、26日未明の午前2時ごろに占領された。なすすべなく会議を続けていた閣僚たちは逮捕され、ケレンスキーは冬宮を脱出し最終的に国外へ逃れた。

十月革命の公式な日付は冬宮を除くすべての政府機関が占領された10月25日とされている。 後に、10月25日から26にかけての出来事はソ連政府によって実際よりも劇的に描かれるようになった。 イギリスのペトログラード駐在武官アルフレッド・ノックスは冬宮の守備が体をなしておらず、ほぼ無抵抗で占領された様を目撃して書き残しているが、1920年に革命3周年を記念して冬宮で上演された歴史再現群衆劇『冬宮への突入』では、冬宮占領の様はドラマチックに描かれている。

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☛ ☞  今も残る大戦の遺産 “ボリシェヴィキと共産主義”

第1次大戦によって多くの体制が終わりを告げた。しかし、ロシアほど変化が急速でなおかつその影響が広範囲に及ぶ所もなかった。 戦争によってロシアの平民の間で数十年間くすぶっていたエリート支配層に対する恨みが爆発した。1917年までに、ロシアはドイツとの大規模な軍事衝突で相次いで敗北したため、15年に軍隊を自ら支配下に置いた皇帝ニコラス2世はその責任を問われた。飢餓やストライキの続発によって各地の都市がまひ状態に陥るなか、ロシアではすでに革命が必至であるかのように見受けられた。

発端は17年2月にサンクトペテルブルグ(当時のペトログラード)で起きた。大半が女性の数万もの人々が食料品や戦争終結を求めて町を行進した。軍が命令を無視し、抗議に参加するとニコライ2世は退位を余儀なくされ、400年におよぶ帝政ロシアに終止符が打たれ、暫定的社会主義政権への道が切り開かれた。

2月の劇的な事象をもってしても、歴史を変えたのは十月革命と呼ばれる17年2度目の革命だった。「平和を、土地を、パンを」との約束を掲げるレーニン率いるボルシェビキ党は、赤軍の支援も得て政権を奪回し、ただちにドイツとの平和を探るとともに、ロシアが世界初の社会主義国であることを宣言した。 皇帝とその一族はロシア南部の亡命先で1918年に内戦のさなかに処刑された。内戦では第1次大戦の前線から帰還する多くの兵士がボルシェビキ側についた。

ソ連が正式に成立したのは1922年だが、共産党の強大な力がはぐくまれた背景には第1次大戦の悲惨な状況があった。誕生した強大国と別の大国、米国との抗争は、二十世紀後半を定義づけるものとなった。

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===== 続く =====
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