第一次世界大戦の轍=22=

10-01-1

☛ ☞ ソヴィエト権力の確立

蜂起の最中、予定通り第二回全国労働者・兵士・農民代表ソヴィエト大会が開かれた。 投票によって選ばれた670人の評議員のうち、300人ほどがボリシェヴィキであり、残りのうち100人近くがケレンスキー政府の転覆と革命政権樹立を支持した社会革命党左派エスエル左派)であった。 冬宮占領を待ち、大会は権力のソヴィエトへの移行を宣言した。 こうして革命は承認された。

しかしソヴィエトへの権力移行には反対勢力もあった。 ソヴィエト大会評議員のうち、社会革命党(エスエル)の右派と中道派、およびメンシェヴィキは、レーニンとボリシェヴィキがクーデターを起こして不法に権力を奪取し、専制を強め、ソヴィエトの決議が通る前にすでに先に物事を決めてしまっていると責めた。 ボリシェヴィキに抵抗する彼らにトロツキーは「おまえたちは破産した。 おまえたちの役割は終わった。おまえたちはこれから歴史のごみ箱行きだ」となじった。

1918年10月27日、第二回ソヴィエト大会は、臨時政府に代わる新しいロシア政府として、レーニンを議長とする人民委員会議を設立した。 大会は全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案する=平和に関する布告=、農民ソヴィエトに貴族・教会など地主から土地を没収し再分配する権限を与えることを宣言する=土地に関する布告=を採択した。 ボリシェヴィキは工業を復興させ都市と農村の間で商品が円滑に交換されることを目指しており、農民の支持を必須のものとしていた。彼らは自らを労働者と農民の同盟を代表するとみなした。

さらに大会は次のような布告を行った。 なわち、ロシアのすべての銀行の国有化、工場の管理権限を労働者ソヴィエトへ与える「労働者統制」、銀行口座の押収、教会資産の没収、戦時中の労働賃金を上回る賃金への固定、ロシア帝国および臨時政府が負った債務の一方的破棄、ポーランドとフィンランドの独立への約束である。

冬宮から逃亡したケレンスキーは、プスコフで騎兵第3軍団長ピョートル・クラスノフの協力をとりつけ、その軍によって10月27日にペトログラードへの反攻を開始した。 トログラード市内でもエスエルやメンシェヴィキを中心に「祖国と革命救済委員会」がつくられ、10月29日に士官学校生らが反乱を開始した。 しかし反乱はその日のうちに鎮圧され、ケレンスキー・クラスノフ軍も翌日の戦闘で敗れた。

10-01-2

 モスクワでは10月25日にソヴィエト政府を支持する軍事革命委員会が設立され、26日には臨時政府の側に立つ社会保安委員会がつくられた。 10月27日に双方の武力衝突が起こり、当初は社会保安委員会側が優勢だったが、周辺地域から軍事革命委員会側を支持する援軍が到着して形勢が逆転した。 11月2日に社会保安委員会は屈服して和平協定に応じた。 軍事革命委員会は11月3日にソヴィエト権力の樹立を宣言した。

ボリシェヴィキとともに武装蜂起に参加した社会革命党左派は、11月に党中央により除名処分を受け、左翼社会革命党として独立した。 翼社会革命党はボリシェヴィキからの入閣要請に応じ、12月9日に両者の連立政府が成立した。 ボリシェヴィキ主導の権力奪取は、ロシア帝国の他の部分でも徐々に進んだ。 ヨーロッパ・アジアの北部と中部ではソヴィエトへの移行が進み、モスクワやロシア南部では戦闘が起こったものの短期間のうちに収束した。

1918年初頭までには各都市はソヴィエトの支配下に置かれている。 しかしロシア人以外の民族が多数派を占める地域では、二月革命の後に相次いで独立宣言を行ったり独立への動きを見せていたためソヴィエトへの移行は進まなかった。

例えばウクライナでは、ウクライナ中央ラーダが1917年6月23日に自治を宣言し、11月20日には中央ラーダは臨時政府のロシアとの連邦を前提とするウクライナ人民共和国の創立を宣言した。 これはペトログラードのボリシェヴィキ政府(ソヴナルコム)と対立を深め、12月の赤軍のウクライナ侵攻を発端に全面的な武力衝突へと至る。 1917年11月8日 から 1921年11月17日まで断続したウクライナ・ソビエト戦争である。

1918年1月25日にはウクライナはついにロシアからの独立を宣言した。 エストニアでは1917年11月28日に議会が独立を宣言した。 ヤーン・アンヴェルトのボリシェヴィキ派勢力は12月8日にレーニンのソヴナルコム政府を承認したが、その勢力は首都タリンの周囲しか把握していなかった。 アゼルバイジャンの首都バークのソヴィエトはソヴナルコムに従ったが、これはロシアの非ロシア人地域の中では稀な例であった。 このように新生ソビエトと隣接する諸国との対立が深まって行った。

10-01-3

❢❢❢ 東部戦線の終局・1918 ❢❢❢

1918年2月9日、反ヴォルシェビキのウクライナ人民共和国中央同盟国(ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国・ブルガリア王国)の間でブレスト=リトフスク条約が締結された。 ロシア領は大きく後退し、国境が東方に移行した。 そして、2月18日、長引く交渉に苛立っていたドイツ軍は、ウクライナとの条約締結がなったため、ソビエト政府への攻勢を再開した。 十月革命後の混乱の影響でロシア軍はほとんど解体されており、無人の野を征くが如きドイツ軍はたちまちミンスクを落しペトログラードにも迫った。

ドイツ側はソビエト政府に対し、ウクライナ・バルト海沿岸地方・フィンランドの独立を承認し(実質的にドイツへの割譲)、ポーランド・リトアニア・白ロシアの一部をドイツに、カルスとバトゥムをオスマン帝国にそれぞれ割譲し、賠償金60億マルクを支払うという過酷な条件を突き付けた。 ボリシェヴィキ内部でも激論が戦わされた。正規軍が戦えずとも、農民や労働者がゲリラになって戦えば良いと言う主張もあったが、結局レーニンの即時講和論が押し通される形で党委員会は採択する。3月3日、双方の間でブレスト=リトフスク条約が締結され、ロシアは総人口の3分の1、耕地・鉄道網の4分の1、石炭・鉄生産の4分の3を失った。

結局、2月に開始されたドイツ軍の進撃を食い止めることができなかったボリシェヴィキは、現在のバルト三国ベラルーシウクライナにあたる広大な領域をドイツに割譲しなければならなかった。 ロシアに極めて厳しい条件を課したこの条約に刺激され、ロシアの内外で反ボリシェヴィキ運動が活発化し始めた。 このようにして発生した内戦の多くは1920年までに終結したが、1922年に至るまで大規模な反乱・蜂起が散発している。 シベリア沿海州における白軍政権の崩壊をもって内戦は終結するのだが・・・・・・・・。

10-01-4

  内戦終結後のロシアは国土を再統一できたものの、荒廃と破壊の極致にあった。 内戦中赤軍白軍、両軍の手により一家離散を余儀なくされる民間人も珍しくはなかった。 片方の軍が残虐行為を働くと、もう片方もそれに劣らない報復行為に及んだと言われている 。レーニンの下で誕生した秘密警察チェーカーは令状も無く無制限に市民を逮捕できたため、多くの人々が無実の罪を着せられて処刑された。

1920年から1921年にかけて発生した旱魃(かんばつ)が事態を更に悪化させた。 レーニンは市場経済廃絶のために飢餓に苦しむ地域に救援の手を差しのべず逆に食料を強制的に徴発し、多くの餓死者を出した。革命勃発からわずか数年の内に、およそ800万人が死亡したと推定されている。ドミトリー・ヴォルコゴーノフは、ロシア内戦を「帝政ロシア時代の悲劇すら色あせて見えるほどの非人間的行為」と非難している。

戦闘、飢餓、無政府状態にある地域を避けて、数百万人がロシアの地を離れた。 極東、日本を経由して欧米に脱出するルートがしばしば用いられた。 ヨーロッパに渡らず日本に残った者も多い。 戦時共産主義の採用によりソビエト政府は内乱を乗り切る事に成功したが、経済状態は戦前に比べて絶望的に悪化していた。個人による生産や取引は禁止され、新しい経済体制では十分な量の商品を供給することができなかった。

10-01-5

☛ ☞  今も残る大戦の遺産 “避妊”

コンドームはさまざまな形態で第1次大戦以前から存在していたが、大戦はこれが多くの国で普及するきっかけになった。 コンドームは1914年以前からドイツ軍兵士に支給されていた。しかし、英政府や17年に参戦した米国は配布をためらったほか、自国では倫理的な観点から姦淫を奨励することにつながると主張する向きもあった。

ピーク時には400万人に達したイギリスおよび帝国の陸軍兵士のうち、最大5%が第1次大戦中に梅毒に感染した。 性感染症による戦時中のイギリス・帝国兵士の入院数は41万6891件となったが、こうした入院の一部は再発によるものだった。18年には病院に推定1万1000人の兵士が入院していた。(1916年の梅毒感染率は英軍兵士が3.7%、報酬の上回ったカナダ軍兵士は20%強だった)

回復までに梅毒感染者は5週間、淋病感染者は4週間をそれぞれ要し、兵力を著しく脅かした。  第1次大戦で米陸軍は性病を通じて約700万人日(1人あたり1日の兵役の単位)を失い、1万人強が除隊処分の対象になった。戦時中にこれを上回る人日を示したのは18-19年のインフルエンザの流行のみだった。 1917年になると英陸軍兵士はコンドームを支給されるようになった。ただ、すでに多くのイギリス帝国軍兵士はボランティア活動や慰安所を通じて手に入れていた。一方、コンドームが米軍兵士に支給されることはなかった。

代わりに米軍兵士が支給されたのは感染後の処置用キット「Dough Boy Prophylactic」だった。フランスが米軍兵士向けに公認売春婦のいる「特別慰安所」を設けることを提案すると、ニュートン・ベーカー陸軍長官は「ウィルソン(大統領)がこれを見たら戦争を止めるだろう」と激怒したといわれる。

英歴史学者A・J・Pテイラー氏は、第1次大戦は英国でコンドームが普及する要因になったと位置づけ、「戦争は数百万もの男性にsheath(英国のコンドームの俗称)という有効な避妊法を紹介した」と述べた。 大戦末までに米国はほぼ唯一コンドームを支給していなかったが、教訓は学んだようで、第2次大戦中には兵士に予防薬を支給した。多くの公共衛生専門家によると、第1次大戦は米軍関係者向け性教育プログラムを開始するきっかけにもなった。

10-01-6

===== 続く =====
前節へ移行 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/09/30/
後節へ移動 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/10/02/

※ 下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

                         *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;歴史小説】 ameblo.jp/thubokou/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中