第一次世界大戦の轍=23=

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❢❢❢ イタリア戦線の揺動 ❢❢❢ 

1917年のロシア革命東部戦線が同盟軍の勝利に終わると、オーストリア軍は全力をイタリア戦線に注ぐ事が出来る様になり、加えて余裕が生まれたドイツ軍からも精鋭の増援部隊を派遣してもらっていた。 カポレットの勝利はドイツ軍から派遣された司令官と少数精鋭の突撃師団による浸透戦術と、イタリア軍司令官ルイージ・カドルナ大将の失策によって齎された。 イタリア陸軍はそれまでの占領地を失い、30万名の戦力も失ってヴェネト地方へと後退を強いられた。

無能なルイージ・カドルナ大将は解任され、代わって軍司令官の一人だったアルマンド・ディアズ大将が参謀長に抜擢された。 ディアズ将軍はヴェネト州西部のピアーヴェ川で独墺軍の攻勢に踏み留まり、同地に川沿いの強固な防衛線を形成した。 また政府内でもパオロ・ボセッリ政権が責任を取って辞任、新たな首相に選出されたヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランドロンドン条約を活用して援軍を要請、連合軍側もイタリア戦線に援軍を送り込んだ。 しかし大部分のフランス軍とイギリス軍は春季攻勢に備えて撤退してしまい、僅かな戦力しか増援としては残らず、結局は殆ど独力で独墺軍に対処せねばならなかった。

オーストリア側ではアルトゥール・アーツ・フォン・シュトラウセンブルク上級大将が参謀長になったが、彼は早期にイタリア戦線を自らの手で終わらせる事を望んだ。 軍司令官に格下げされたフランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ前参謀長とスヴェトザル・ボロイェヴィッチ将軍も攻撃に賛同したが、ボロイェヴィッチとコンラートが犬猿の中であった事も対立に拍車を掛け、シュトラウセンブルク参謀長は二人の将軍に曖昧な仲裁を繰り返した。 結果、オーストリアの攻勢は二箇所から戦力を二分して行われる事になった。

ドイツ軍側は攻撃の開始を求め、1918年2月にボルツァーノで作戦が正式に決定された。 ドイツ軍のエーリヒ・ルーデンドルフ将軍は西部戦線で日に日に増加しているアメリカ軍師団がイタリア戦線の火消しに回る事を望んでいた。オーストリア・ハンガリー軍はドイツ軍の浸透戦術を間近に見ながらこれを学習せず、持てる戦力を前面に配置しての平押しに訴えた。一方で兵員面では東部戦線帰りの兵士達はドイツ軍式の訓練を受けていたので、新しい戦闘に対応できる錬度の高さを保っていた。

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 しかし軍事的な改革はイタリア軍の側にもあり、アルマンド・ディアズ将軍はカポレットの敗因を分析して、最たる原因は「機動的な防御」の欠如にあると判断した。 詳細だが柔軟性に欠ける作戦計画、司令部を中心にした余りにも現場主義が欠如した指揮系統、そしてカドルナの死守命令の乱発によって硬直化した防衛線、全てが敗北の原因となっていた。 ディアズは連続塹壕の廃止と柔軟な指揮系統への改革を推進し、小規模な部隊でも前進と後退や砲撃支援を自主的に判断出来るようにして、現場主義による柔軟な防御戦術を獲得した。 更に13個の師団に関しては自動車による補給を本格的に導入、劇的に前線の補給状態を改善した。

オーストリアの攻勢作戦が発動されると、ディアズ将軍はボロイェヴィッチのピアーヴェへの攻勢を予測して、6月15日午前3時00分に先制砲撃を行った。 攻勢で混雑していたボロイェヴィッチ軍の上空に砲弾が降り注いで大量の負傷者が発生、うろたえたオーストリア兵の多くは攻勢を放棄して陣地に逃げ戻った。 それでも一部の師団はイタリア軍陣地に到達したので、ボロイェヴィッチ将軍はピアーヴェ川の中央に攻撃を命じた。ピアーヴェ川に掛かる橋を進むオーストリア軍とイタリア軍陣地の激しい交戦はイタリア側に軍配が上がり、ボロイェヴィッチの退却命令でオーストリア軍は退却した。

翌日にボロイェヴィッチは二度目の攻勢を開始したが、前日の戦いでピアーヴェ川の橋は完全に破壊されていて渡河しか手段はなかった。 運良く川を渡れた師団は装備や物資を少数しか持ち込めず、更にピアーヴェ川の増水で渡河中のオーストリア軍師団が彼方此方で孤立してしまっていた。 彼らはイタリア軍師団にとって格好の標的として無慈悲な銃火に晒され、川岸に僅かな橋頭堡を確保した時点でオーストリア軍は2万人という大量の戦死者を出していた。 そして6月19日、ディアズはイタリア軍師団に反撃を命令して川岸の橋頭堡を奪還、6月23日までにボロイェヴィッチ軍は敗走を開始した。

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☛ ☞  イタリア軍の奮闘

攻勢が完全に失敗した後、戦いは程なく小康状態に入ってオーストリア軍が散発的な攻撃を繰り返すのみになっていた。 連合国はイタリアの戦勝に喜び、連合国総司令官フェルディナン・フォッシュ元帥は敗走したオーストリア軍を直ちに追撃する様に要請したが、アルマンド・ディアズ将軍はこれを拒絶した。 ディアズ将軍は戦いは勝利に終わったが戦闘の殆どはイタリア軍師団が担当しており、時に攻勢を交えた戦いはイタリア軍側にも少なくない打撃を与えていた事を憂慮していた。

加えて言えばオーストリア軍はピアーヴェ側の自軍陣地に戻っており、下手に攻勢を仕掛ける(渡河側に回る)のは今回の敗北を自分達が再現する事になりかねないと批判した。 イタリア軍司令部は戦力の増強に努めつつ、用心深く攻撃の機会を伺う事にした。 一方、敗北したオーストリア軍はこれが第一次世界大戦で、そしてハプスブルク帝国の歴史の中で最後の攻勢となった。 敗北はドイツ軍の希望としてのオーストリア軍を失わせたという事と、後のハプスブルク帝国崩壊の双方を予兆する出来事だった。

4ヶ月後、ヴィットリオ・ヴェネトの戦いでイタリア陸軍はピアーヴェ川を渡河し、オーストリア軍との戦いに決着を付ける。 ヴィットリオ・ヴェネトの戦い(Battle of Vittorio Veneto)は、1918年10月24日から1918年11月3日にかけて、イタリア王国軍とオーストリア=ハンガリー帝国軍の間で行われた大規模な戦闘である。 厭戦感情が蔓延していたオーストリア軍はこの戦いでイタリア軍に大敗し、50万名以上の兵士を失って西方戦線での主戦力を喪失したと言われる。

1918年10月28日、イタリア王国渡河とオーストリア=ハンガリー帝国軍の総退却と同じ日にハプスブルク体制に反旗を翻していた民族の一つであるチェコ人勢力は臨時政府樹立を宣言した。 10月29日には南スラブ人勢力がこれに続き、帝国本土は内乱状態に陥りつつあった。 10月30日、墺軍の混乱を尻目に伊軍は第10軍を中心に戦線を拡大させ、4個軍が前線を大きく突破して24km後方にまで突出した。

初期目標であるヴィットリオ・ヴェネトを含め、幅54kmにも及ぶ戦線が対岸に構築された。 これによりピアーヴェ川のオーストリア・ハンガリー軍の防衛線は南北に分断され、6日間に亘った戦闘でイタリア側は当初の目標を達成した。 対照的にオーストリア・ハンガリー側は前線での苦戦もあり、帝国内の民族紛争は一層に加熱していった。

☛ ☞  オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊

10月31日、ヴィットリオ・ヴェネト陥落の翌日には遂にハンガリー人勢力が独立運動に加わり、オーストリア・ハンガリー帝国の解散を求めてブタペスト暴動が発生した=アスター革命=。 タリアメント川に敗走していた墺軍内ではハンガリー系兵士とオーストリア系兵士との対立が先鋭化し、チェコ系兵士やスラブ系兵士の脱走も相次いだ。 ディアツ将軍は敵軍が士気崩壊に陥っている状態を見逃さず、直ちに全軍へ追撃命令を下した。 最初の追撃で5万名のオーストリア兵がイタリア軍に降伏、捕虜はイタリア第11軍がタリアメント川近辺に到達した11月1日までに10万名にまで増えた。 11月1日からはイタリア海軍も攻勢に加わって戦線後方のトリエステを占領し、オーストリア軍後方を脅かした。

11月3日、イタリア陸軍はタリアメント川に到達、次の目標たるイソンヅォ川へ向かおうとしていた。 戦線崩壊に陥ったオーストリア軍司令部はタリアメント川渡河を準備するイタリア軍司令部に白旗を掲げて休戦を求めた。 両者間で取り結ばれたヴィラ・ジュスティ休戦協定は署名日の11月3日午後3時から24時間後に施行される事になっていた。

従って11月3日から4日の3時までは前線では戦闘の可能性が残されていたが、早期の和平交渉を望むオーストリア軍代表ウェーバー将軍 は11月3日中に負傷兵を含む残余兵30万名へ停戦命令を出した。 ウェーバーは署名発行前の停戦命令でイタリア側が進軍を止めて交渉を始める事を期待した。 しかしイタリア軍内部の強硬派は優勢であるにも関わらず結ばれた休戦協定に不快感を抱き、休戦協定施行までは進撃を継続するべきと主張した。 ウェーバーは進軍継続は協定違反だと訴えたが、イタリア軍が進軍を継続した11月4日午後3時までは休戦協定は国際法上機能していなかった。 結局イタリア陸軍50万は11月4日中に関しては進軍継続を決定、タリアメント川を渡河して残りの占領地の回収を開始した。

戦いは単なる戦術的勝利だけでなく、オーストリア・ハンガリー(ハプスブルク君主国)というイタリア最大の仮想敵国が歴史上から消滅する結果を生んだ。 オーストリア降伏はキール反乱を初めとするドイツ国内の厭戦感情を激化させ、ドイツは降伏を選択した。 勝利は10月31日のハンガリー独立に続いた数多くの民族自決運動に公認を与え、ドイツが戦争継続を断念する一つの理由ともなったのである。 オーストリア=ハンガリー帝国においては、敗戦による政治的混乱と軍部隊の壊滅は帝国内で発生した内乱を鎮圧する手段を防ぐ意味合いを持った。他方、長年の宿敵であるオーストリア・ハンガリー帝国が成す術なく崩壊する要因を作り出した事は、イタリアにとって領土割譲以上に重要な戦略的勝利を意味した。

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☛ ☞  今も残る大戦の遺産 “日本の軍国主義”

東アジアの外交問題に絶えずつきまとう残虐行為を生み出した日本の軍国主義。その起源は第1次世界大戦に深く根ざしていたと歴史家らは指摘する。 戦争までの道のりを振り返ると、西側諸国がバルカン情勢に集中する合間に日本は東アジアへの影響力を強めた。1895年の日清戦争、1904-05年の日露戦争で勝利した結果、日本は満州の大部分を施政下に置いた。1910年には正式に韓国を併合した。

第1次世界大戦で日本は植民地を持つ列強としての地位を固めた。この地位は従来、西側諸国が独占していたものだ。 第1次大戦直後の日本では民主主義やモダンな文化が花開いた。しかし、他の戦勝国からの要求に日本がどれだけ譲歩するかをめぐり、国内の意見対立が次第に激しくなっていった。

戦後の軍縮機運は1922年のワシントン海軍軍縮条約につながった。これは英米に対して日本の戦艦保有比率を制限するもので、日本全権に対するタカ派の怒りを誘ったと歴史家らは指摘している。 1923年に発生した関東大震災が暗黒時代の先駆けとなり、1929年の世界大恐慌が状況を一段と悪化させた。1932年には海軍青年将校らが犬養毅首相を殺害した「五・一五事件」、36年には陸軍青年将校らによるクーデター未遂事件「二・二六事件」が発生した。首謀者は処刑されたが、こうした事件で軍幹部に権力が集中し、軍出身者が政府要職を占めるようになった。 中国における日本の野心的な拡張主義は英米との対立を招き、これが日本をドイツやイタリアに接近させたと歴史家らは指摘する。

日本は1937年に北京を陥落させ、中国の大部分を施政下に置いた。米国により供給を絶たれた天然資源を確保するため、日本は当時のビルマやグアムなど、アジア太平洋の広い地域を侵略。これが米国を中心とした連合国軍との太平洋戦争につながった。

敗戦後、米国は大日本帝国憲法を改定し、国際紛争を解決する手段としての武力の行使を放棄させた。歴史家や政治学者らは、戦後70年近く日本が平和国家でいられたのはこの憲法のおかげだと指摘する。しかし、地政学的な状況が変化するにつれ、米国は日本に軍事的役割を高めるよう求めるようになり、平和主義を厳格に規定する憲法の文言が課題となった。朝鮮戦争が勃発すると日本は後方支援基地として利用された。こうした変化に対応するため、日本政府は国内法の調整や憲法解釈の変更を繰り返してきた。

今日、中国の軍備拡張や北朝鮮の核開発が東アジアの緊張を高めている。安倍晋三首相は憲法解釈の変更を通じて日本の軍事的役割の拡大を求めているが、中国と韓国は歴史的にもこうした動きを警戒している。

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===== 続く =====
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