第一次世界大戦の轍=24=

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❢❢❢ ドイツ軍の春季攻勢と連合軍の最終攻勢 ❢❢❢

ドイツ軍は、ボリシェヴィキ政府と講和したことで、東部戦線から西部戦線へ部隊を転進させることができるようになった。 西部戦線へ送り込まれるドイツ軍の増援と、新しく連合軍に加わるアメリカ軍とによって、戦争の最終結果は西部戦線で決定されることになった。 ブレスト=リトフスク条約で中央同盟国が占領した領土が小さかったなら、ドイツ軍はより多くの兵力を西部戦線へ投入でき、戦争の結末も違っていたかもしれない。

しかしながら この条約によって、ロシアは第一次世界大戦から正式に離脱し、さらにフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ及び、トルコとの国境付近のアルダハンカルスバトゥミに対するすべての権利を放棄した。ドイツ帝国は少なからぬ軍団をこれらの地域に貼り付けて、各民族の動向の管理をもとめられ、西部戦線に東部戦線の戦力を振り向ける事が出来なかった。

ドイツ参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフは、アメリカ軍の到着により、これ以上長引く戦争に勝利することはできないことを悟っていた。 更に、戦争の長期化によりヨーロッパ全土で社会崩壊と革命の可能性が高まることを恐れるようになった。 しかし、東部戦線からの増援と新しい歩兵戦術の使用により、西部戦線での迅速な攻勢によって決定的な勝利を得ることに大きな望みを賭けていた。 作戦は英仏両軍の中間に攻勢をかけて分断し、イギリス軍を北に圧迫してドーバー海峡へと追いやることを目標としていた。 決定的な勝利を得るために、浸透戦術の徹底、飛行機の活用、詳細な砲撃計画、毒ガスの大規模な使用が図られた。

1918年3月21日、1918年春季攻勢の緒戦であるミヒャエル作戦が発動された。 ドイツ軍がアミアンの鉄道結節点の英軍に対して攻撃が開始された。 ルーデンドルフの狙いは英軍と仏軍との分断であった。 ドイツ初の戦車A7Vも初めて実戦に投入された。 ドイツ軍は浸透作戦によって塹壕を突破。 これ以前は、典型的な塹壕への攻撃は長距離砲の砲撃と連続的な前線の大量攻撃によって行われていた。

しかしながら、この攻勢では、ドイツ軍は短時間の砲撃を行い、弱点に歩兵を浸透させ、司令部と兵站エリアおよび強固な抵抗拠点の周囲の場所を攻撃した。 こうして孤立した拠点を、より重武装の歩兵によって破壊した。 この攻勢でドイツ軍は60キロという空前の前進を達成した。 これほどの前進を果たしたのは1914年以来これが初めてだった。

快進撃を続けるドイツ軍はパリの120キロ圏内へ進撃。 パリ砲(射程100キロ以上の長距離砲撃が可能な点からこう呼ばれた)がパリに向けて183発の砲弾を撃ち込んだ。 これにより多くのパリ市民がパリから脱出した。 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は3月24日を国民の祝日とすることを宣言。 多くのドイツ国民が戦争の勝利を確信した。 しかし、進撃速度に補給線が追いつかず、またドイツ軍の激しい消耗で攻勢は止まってしまった。 1918年3月から4月のドイツの死傷者は270,000名に上った。

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☛ ☞  連合国軍の反撃

ドイツ軍の攻勢を受けて、英仏両軍は指揮系統の統一に同意し、総司令官としてフェルディナン・フォッシュが任命された。フォッシュは巧みに戦線を再構築してルーデンドルフが意図していた突破の可能性を挫き、戦闘は従来と同様の消耗戦の様相を呈していった。

5月にはアメリカ遠征軍(AEF)師団が初めて前線に投入され、夏までに毎月30万人の兵士がアメリカから輸送された。 総兵力210万人のアメリカ軍の登場によって、それまで均衡を保っていた西部戦線に変化が生じた。

フォシュはドイツ軍の攻勢によってマルヌ付近に形成された突起部に対する反転攻勢を企図し、7月に第二次マルヌ会戦が発生した。 連合軍による攻撃はこれまでに見ない成功を収め、翌8月には突起部が解消された。 この戦闘が終了した2日後にはアミアンの戦いが開始され、600輌以上の戦車と800機の飛行機を使用したこの戦闘で連合軍は全前線において前線突破に成功し、ヒンデンブルクはこの8月8日をドイツ軍にとり最悪の一日と称することになった。

9月になるとジョン・パーシングに率いられたアメリカ遠征軍(AEF)が50万以上の兵力を投入したサン・ミッシェルの戦いが開始された。 これに続いてアメリカ遠征軍は10個師団を投入してムーズ・アルゴンヌ攻勢を実施した。

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❢❢❢ パリ講和会議への足音 ❢❢❢

ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領はアメリカ合衆国の参戦前にも「勝利なき講和」(Peace without victory)を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。 ウィルソンは懲罰的賠償や秘密外交を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。 これがいわゆる理想主義的なウィルソンの「新外交」と呼ばれるものである。

秘密外交に対する批判に答えたイギリスデビッド・ロイド・ジョージ首相は、戦争遂行のために「会議による外交」(diplomacy by conference)を唱えた。 「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に重要な問題を論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。

また、当時イギリスの大新聞を支配していたノースクリフ子爵は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。 このため講和会議直前の1918年イギリス総選挙では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。

1918年1月8日、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「民族自決」などを含めた十四か条の平和原則を公表した。 以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。 11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った=ランシング通牒=。

ドイツ首相バーデン大公子はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で休戦協定が結ばれた。 しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。 だがしかし 折からのドイツ革命の進展で、ドイツに共産主義政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。

ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。 一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ軍国主義の破壊」自体は、内政干渉に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。 しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負ったフランスのジョルジュ・クレマンソー首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除やロシア内戦等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。

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☛ ☞  今も残る大戦の遺産 “中等紛争”

1917年11月2日に、英国のアーサー・バルフォア外相は同国のユダヤ人コミュニティーの指導者、ウォルター・ロスチャイルド男爵に書簡を送った。その一週間後に(ロンドン)タイムズ紙に掲載されたこの書簡は「英政府はパレスチナにユダヤ人の郷土をつくることに前向きな見方をしており、この目的の達成ために最大限の努力を払う」と記している。

英国がユダヤ国家を建てるまでの経緯は幅広い影響を伴った。戦争の結果、オスマン帝国の崩壊に直面した英国とフランスは、地域分割に向けた協定に調印した。この協定は、オスマン帝国に対する反乱に成功することを条件とした独立の承認をめぐる地元アラブ人との約束と矛盾するものだった。

参戦間もない米国が植民地の奪取を快く思わないことを認識した英国は、パレスチナのユダヤ人居住地への支援を表明したが、これは有力ユダヤ人団体が1890年代以来提唱してきたものだ。英国は宣言によって米国のユダヤ人が戦後もパレスチナを英国統治下にとどめることを認めるよう政府に圧力をかけることに期待した。イギリス帝国の戦略に重要なスエズ運河の東岸の確保は、英国にとって大きな価値があった。

戦後のユダヤ人の移住はたちまち進み、土地は紛争の主因になった。入植者はこれを購入したが、売り手はしばしばシリアやレバノンに住み、海外資産を処分する不在の家主であり、しばしば地元のアラブ人であった。英国のパレスチナ高等弁務官、ジョン・チャンセラー氏によると、こうした所有者の多くはあまりにも多くの負債を抱えており、売却する以外に選択の余地は限られていた。
入植者は取得した土地を耕すことを望み、退去を拒否するアラブ人の立ち退きについて英当局に依存した。強制退去は反発を招き、攻撃につながった。入植者は自ら武装部隊を設立し、アラブ人も同様の動きに及んだ。

1930年までには、チャンセラー氏はバルフォア宣言を「壮大な失態」と称するようになり、英国は好戦的になってゆく両民族間で平和の維持に務める立場に置かれた。35年にアラブ反乱が起きると、英国はユダヤ人の移住制限に動いた。
この結果、フランスによる秘密裏の支援もあってユダヤ人の反乱が勃発し、これは48年のイスラエル国家の建国に直接つながったが、その後はアラブ勢による破壊活動が度々試みられた。この地域をほぼ一世紀にわたり混乱に陥れた敵意の多くは、第1次大戦の終戦直後の政策策定や植民地争いにまでたどることができる。

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===== 続く =====
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