第一次世界大戦の轍=25=

10-04-1

☛ ☞  パリ講和会議の構成

大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)を結成して協議を行っていた。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。スイスのローザンヌ、フランスのヴェルサイユが候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。 ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した。

会議には世界から33ヶ国(イギリス自治領含む)70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった。

最重要問題については五大国(イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、日本)の全権で構成された十人委員会(The Council of Ten)で行われることになった。 しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアのヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド首相、通訳官のポール・マントゥーで構成された四人会議(The Council of Four)で重要事項は討議されることになった。

また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった。 四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった。 その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会(国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸(港湾・水路・鉄道)、賠償)によって討議された。

参加主要国(代表五名)は、
・ イギリス;アーサー・バルフォア外相、アンドルー・ボナー・ロー国璽尚書、ロバート・セシル元封鎖相、ウィンストン・チャーチル戦争相・航空相
・ フランス;ステファン・ピション外相、フェルディナン・フォッシュ連合軍最高司令官、
・ イタリア王国;ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド首相
・ 日本; 西園寺公望元首相、牧野伸顕元外相、珍田捨巳駐英大使、松井慶四郎駐仏大使
・ アメリカ合衆国;ロバート・ランシング国務長官、ニュートン・ディール・ベイカー陸軍長官、エドワード・ハウス名誉大佐
ウッドロウ・ウィルソン大統領(米国)、デビッド・ロイド・ジョージ首相(英国)、- ジョルジュ・クレマンソー首相(仏国)が指導的な三巨頭であった。

10-04-2

☛ ☞  パリ講和会議の流れ

1918年12月26日、ウィルソンは「We Want Wilson!」の歓呼の中ロンドンに到着した。 彼はイギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた。 1月12日にはウィルソンとロイド・ジョージがパリに入った。1月12日には休戦後最初の十人委員会がフランス外務省で行われた。 翌13日にはフランスのピション外相が講和会議の進行方法や、十四原則を加味した原則を提示している。

この日には講和会議で「国際連盟」「賠償問題」「新国家」「国境線変更」「植民地」の五つの論点について協議するという決定が行われた。 17日にはピションが五つの論点を総会で検討する提案を行ったが、ウィルソンはこれらが総会で検討するのは不適切であるとし、小委員会を設置し、その委員会が総会に提案するかどうかを決定するよう主張した。

1月18日に講和会議の開会が時計の間で宣言され、そのまま講和会議総会が開かれた。 開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。 ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。 しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスのステファン・ピション外相の猛反対にあった。 このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった。

1月25日には総会においてウィルソン提案の委員会設置が承認された。 2月14日には三度目の総会が行われ、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらに2月19日にクレマンソー暗殺未遂事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った。 3月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった。ウィルソンの提示した諸原則そのものは他の首脳の反対を受けなかったものの、彼らは「原則では賛成、細目では反対」の交渉でウィルソンに抵抗した。

フランスが最も強く要求したのはザール地方の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。 この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評されたフランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。

3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした。 この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。 フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日には体調を崩していたウィルソンが帰国準備を命令する事態となった。 またイギリスの世論や議会ではロイド・ジョージが賠償金問題やボリシェヴィキに対して弱腰であるという批判が続発し、4月15日から4月17日に議会対策のため一時帰国し、「厳格な講和」を約束することとなった。

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☛ ☞  パリ講和会議の終了

4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した。 4月24日にはフィウメ及びダルマチアの帰属に関する問題に抗議してオルランドが帰国し、5月5日になって会議に復帰した。 4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された。 5月7日にブロックドルフ=ランツァウ外相を首席とするドイツ代表が戦争責任条項 (War Guilt Clause)を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った。

ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した。 6月2日にはドイツ=オーストリア共和国に対して講和条約案提示が行われたが、ズデーテン地方の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した。

6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった。 連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日にヴェルサイユ条約の調印が行われた。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。 オーストリアは受諾し、9月10日にサン=ジェルマン条約が締結された。 同日、チェコスロバキアと主たる連合国(五大国)間で少数民族保護条約が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた。

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☛ ☞  今も残る大戦の遺産 “中国の共産主義”

第1次世界大戦の中心舞台は欧州だったが、最終的には中国を変えることになる共産主義革命の先駆けともなった。 100年前の中国は貧しく混とんとしており、地方の軍閥がそれぞれの領地を支配していた。第1次大戦当時、諸外国は中国の港や沿海都市を半植民地として運営していた。

中国は1917年に第1次大戦に参戦し、見返りに山東省のドイツ領が返還されることを期待していた。 ちなみに、青島港に由来する「青島ビール」は、この土地がドイツ租借地だった名残だ。 ただ、戦勝国は山東省のドイツ利権を日本に譲った。 当時、アジアで台頭していた日本は連合国のメンバーで、中国に対する独自の関心を持っていた。

この結果は中国人の多くにとって裏切り行為に映り、1919年5月には学生数千人が全国規模でデモ行進する「五四運動」につながった。 五四運動では、強い国家の建設の模索に新たな目的を与え、中にはロシアで勝利を収めたボリシェビキに触発された中国人もいた。2年後には中国共産党が結成され、約30年後に権力を手中に収めることになる。

中国人民大学の張鳴教授(国際政治)は「第1次(世界)大戦がなければ、パリ講和会議もなく、五四運動も起きず、1949年の共産党も生まれなかった。もちろん別の要素はあるが、第1次(世界)大戦はバタフライ効果のようだった」と語る。
歴史の現実はさらに複雑だった。結成当初、中国共産党は内紛に明け暮れ、1920年代に勢力を増した国民党政権によって壊滅寸前まで追い込まれた。日本は中国の大部分に侵攻し、第2次世界大戦の敗北まで占領を続けた。占領地には1922年に日本から中国に返還された山東省が含まれる。こうした占領と内戦に飢饉(ききん)が追い打ちをかけ、当時の中国は混乱の極みに達していた。

香港大学の徐国琦教授(歴史学)は、軍事力や外交力に乏しい当時の中国にとって、こうした文脈から第1次世界大戦が重要な時期だったと話す。中国は新たな世界秩序を形成するため国際問題に積極的に関与すべきだとの認識を持ったためだという。 教授によると、「そこには対等のメンバーとして国際社会に参加したいという中国の真の欲求が示唆されていた」という。また、「中国が戦後から学んだことは、西側諸国を常に信頼できるわけではないこと、権利よりも力の方が物を言うことだった」と付け加えた。 《※徐教授は「China and the Great War(中国と大戦)」の執筆者》

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