登山家・ブクレーエフの横顔=03/6=

=アナトリ・ブクレーエフ(ロシア)=

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=デナリの速攻アタック= 

1990 年 5 月、ブクレーエフはアメリカ在住登山家達にデナリ(マッキンリー山)登山に招待された。 アラスカにある北米大陸の最高峰(標高は6,168m)、北極圏内に位置し その自然条件はヒマラヤの巨峰と遜色は無い。 正式名称である「デナリ」は、先住民デナッイア族の言語であるデナッイア語で「偉大なもの」を意味する。 1897年、この山は、当時のアメリカ合衆国大統領ウィリアム・マッキンリーにちなみマッキンリー山と命名された。

マッキンリー (デナリ)は隠されたクレバス、北極圏と海への近さのため予期しない寒い天気など登頂への課題はノーマル・ルートでも困難を極める。 ブクレーエフは招待者グループを引率して、頂上に立つ。 南面岩稜・カシン・リッジルートよりの攻撃は成功し、チームの頂上に達したし、何事もなく帰路に就く。 登る時にあった言語障壁以上にブクレーエフは彼の経済事情により準備できなかった機器や登山用個人装備が劣悪で借りることになった痛みを感じていた。

チーム解散後、ソビエト連邦が発給した帰国期日の前に ブクレーエフはマッキンリー山頂へ単独にて速攻攻撃を実行しようと決めた。

1990 年下旬、マッキンリー山の西面岩稜・ウエスト・リブルートの登行開始、頂上に達したのはベースから 10 時間 垂直に近い岩稜を完登した。 この天候が安定する夏季の前に 高度順化は先の登頂で万全とは言え、この季節・時期の登山者が通常を取る 3 ~ 4 日の時間と 5 っのキャンプ地設営を無視した攻撃タクテックスは驚きと嫉妬を籠めた批判につながった。

ブクレーエフの偉業は1990年の登山専門雑誌に記載され、登山界に単独登山の是非論を呼ぶ。 また、ヒマラタ・ジャイアント峰への単独行時代の魁でもあった。 マッキンリー山域を管理するデナリ公園山岳レンジャーは「非現実的な」とこの雑誌にてコメントしている。

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 =資料=【デナリ登頂歴】;初登頂は、1903年のフレデリック・クックによるものだとされていたが、後に否定された。真の初登頂は、1913年6月7日の宣教師のハドソン・スタックウォルター・ハーパーハリー・カーステンスロバート・テータムの4名である。1947年には、バーバラ・ウォシュバーンが女性として初めて頂上に到達した。1951年にブラッドフォード・ウォシュバーン隊によって登頂されたウェストバットレスルートが現在最も一般的なルートとなっている。

マッキンリー山の初登頂は、1903年のフレデリック・クックによるものだとされていたが、後に否定された。 真の初登頂は、1913年6月7日の宣教師のハドソン・スタック、ウォルター・ハーパー、ハリー・カーステンス、ロバート・テータムの4名である。1947年には、バーバラ・ウォシュバーンが女性として初めて頂上に到達した。 1951年にブラッドフォード・ウォシュバーン隊によって登頂されたウェストバットレスルートが現在最も一般的なルートとなっている。

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   = K2 =

1993 年 7月30日 ブクレーエフはピーター ・ メッツガー氏とアンディ ロックと共にK2 の頂上に達した。 彼らは、ギルギット氷河上流・アブルッツィ平経由で K2 の頂上に達した。 K2 はエベレストの後地球上 2 番目に高い山です。

※; K2(ケーツー)は、中華人民共和国新疆ウイグル自治区とパキスタンギルギット・バルティスタン州(あるいはインドの主張によればインドカシミールのパキスタン占領地)との国境にある、カラコルム山脈に属する山。 標高は8611mで、エベレストに次ぐ世界第2位の高さであり、パキスタンの最高峰であり、カラコルム山脈の最高峰でもある。

人里から遠く離れた奥地にあるため、19世紀末まではほとんど人々に存在を知られることもなく、名前が無かった。 不安定な天候、強い風、急峻な傾斜などの環境、地形の厳しさにより、発見され、世界第2の高峰であると認知されたのも他の8000メートル峰よりも遅かった。

K2登頂はどのルートも難しいが、中国側からのアプローチ(北壁ルート)は危険なため、ほとんどの登山者は南のパキスタン側からアプローチをする。 登頂の難しさでは世界最高峰のエベレスト(標高8848m)よりも上で、世界一登ることが難しい山とも言われる。 その理由として、人が住む集落から離れていることによるアプローチの困難さ、エベレストよりも厳しい気候条件、急峻な山容による雪崩、滑落の危険性などが挙げられる。

K2登山に関しては一般的なルートでさえ、エベレストのバリエーションルートに匹敵するといわれる。その急な錐体の山姿は、ほぼすべての方向とも困窮な傾斜で 固有の危険に満ちている。 これらの困難さから、冬季における登頂は未だ達成されていない。 2010年までの時点で、エベレストの登頂成功者は延べ5104人だが、K2の登頂成功者は延べ302人である。 遭難者の数も多く、統計によっては4人に1人が命を落とすと言われ、

チャールズ・ハウストン、ロバート・ベイツ共著の書籍から「非情の山」と呼ばれる。

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  • 1892年 – マーティン・コンウェイがイギリスの探検隊を引き連れてバルトロ氷河コンコルディアに到達。
  • 1902年 – アレイスター・クロウリー隊により、K2西壁より6525m地点まで到達。
  • 1909年 – イタリアの探検家が南東壁より6250m付近まで到達。
  • その後1938年、1939年、1953年にアメリカが挑戦しているが、いずれも成功しなかった。
  • 1954年7月31日(初登頂) – アルディト・デジオ隊(イタリア)。パキスタン側から大規模な登山隊でアプローチして2人が登頂に成功[1]。以降、この南東稜ルートが標準的な登山ルートとなる[1]
  • 1977年8月8日 – 日本山岳協会登山隊の隊員・重広恒夫中村省爾が日本人初登頂。世界でも二回目の登頂成功。
  • 1978年9月6日(無酸素初登頂) – ルイ・ライヒャルトが無酸素初登頂。
  • 1982年8月14日 – 日本山岳協会の合同登山隊(登攀隊長・小西政継)が、中国側の北壁からの登頂に初めて成功。翌15日の二次隊も含めて7人が登頂した。標高8000m付近の峡谷にジャパニーズ・クロワールという地名が付けられる。
  • 1986年6月23日 – ワンダ・ルトキュヴィッチが女性初の登頂に成功。その30分後に、同じく女性でチームメイトのリリエンヌ・バラールも頂上に立ったが、リリエンヌは下山中に死亡した。
  • 1986年 – 6月21日8月10日の間に、7人の登山家を含む合計13名の死者を出す大量遭難事故が発生する。
  • 1996年7月29日 – 戸高雅史が南東稜クラシックルートで無酸素登頂。
  • 1996年8月12日8月14日 – 日本山岳会青年部登山隊(山本篤隊長)の12人が南南東リブルートより登頂。K2登山史上1チームによる最大人数登頂[4]
  • 2000年7月30日 – 山野井泰史が南南東リブルートより無酸素登頂。
  • 2004年8月16日 – 北海道在住の社会人で編成された「どさんこ同人会」(松本政英隊長)の5人が、南南東リブルートで登頂。
  • 2006年8月1日 – 東海大学山岳部登山隊の隊員・小松由佳が日本人女性として初登頂(女性としては世界で8人目)。また、隊員の青木達哉(当時21才)が世界最年少での登頂。
  • 2008年8月1日 – 大規模な氷塊の崩落事故が発生し3人が巻き込まれ、オランダ、フランス、ノルウェー、韓国、ネパールの11名が遭難死した。
  • 2011年8月23日 – オーストリアの女性登山家ゲルリンデ・カルテンブルンナーが、北稜を無酸素登頂し14座制覇を達成。ルートに固定したロープの総延長は約2750メートル。設置には延べ6週間かかった。2008年の大量遭難死事件以来3年ぶりの登頂成功事例。

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