登山家ジョージ・マロリーの横顔=02/9=

=ジョージ・マロリー(イギリス)=

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http://www.youtube.com/watch?v=0nBH6NeyFpw 

《YouTubu動画;MUST WATCH:BBC-Wildest Dream-George Mallory 1;注意!!!!悲惨な写真》

☆  ポロローグ  

 ジョージ・マロリー(George Herbert Leigh Mallory 、1886年6月18日 – 1924年6月8日?)は、チェシャーのモバリ(Mobberley )で牧師ハーバート・リー・マロリー(Herbert Leigh Mallory 、1856年 – 1943年)の第2子として生まれた。 ジョージは4人兄弟で、姉と妹、弟がいた。

1896年、ウェスト・キルビー(West Kirby )の寄宿学校からドーバー海峡沿岸のイーストボーンにある寄宿学校グレンゴース(Glengorse )に転校し、13歳のとき、ウィンチェスター・カレッジの数学奨学生に選ばれた。 ここでマロリーは師であるロバート・ロック・グレアム・アーヴィング(Robert Lock Graham Irving )の影響で登山を始めることになる。

1904年、アーヴィング率いるパーティーにマロリーは学友と共に加わり、アルプスのモン・ヴェラン(Mont Velan )の山頂を目指したが、登頂寸前にマロリーが高山病にかかって断念した。 クレア・エンゲルによれば「アーヴィングが17歳のジョージ・マロリーを山にいざなった。マロリーたちは簡単な山から難しい山までさまざまな山に挑んだ。彼らが初めて挑んだモン・ヴェランでは学生たちが高山病にかかったために登頂できなかったが、さまざまな登山の経験を通して学生たちは優秀なクライマーに育っていった」という。

1905年10月、マロリーは史学を学ぶべくケンブリッジ大学のモードリン・カレッジに入り、そこでジェームズ・ストレイチー(James Strachey )、リットン・ストレイチー、ジョン・メイナード・ケインズ、ダンカン・グラント(Duncan Grant )らのいわゆるブルームズベリー・グループと親交を深めた。マロリーはケンブリッジ大学在学中にボート漕手として知られたが、8人乗りボートのオックスフォード大学との対抗戦には出場していない。

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※;ブルームズベリー・グループは、1905年から第二次世界大戦期まで存在し続けたイギリスの芸術家や学者からなる組織である。 1910年のドレッドノートを舞台とした「偽エチオピア皇帝事件」=1910年に起こった悪名高い担ぎ屋ホーレス・デ・ヴェレ・コールによる悪戯で、偽者のエチオピア皇帝とその随行団がイギリス海軍の戦艦に乗り込んできた詐欺事件=にはメンバーの多くが参加したが非国民という悪名を負う羽目となり、また 彼らのストレートな平和主義・左派自由主義の信念は戦時中において非難を引き起こすことがあった。 しかし、第一次世界大戦後その組織統一は弱まり、意見や信念もばらばらなものとなってしまった。

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学位取得後もマロリーは1年間ケンブリッジに残り、小論『伝記作家ボズウェル』(Boswell the Biographer )を執筆。 その後、しばらくフランスに滞在したが、同地でサイモン・バッシー(Simon Bussy )がマロリーの肖像画を描いている。 =この絵はロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーに収められている。=

教師を志してイギリスに戻ったマロリーは1910年にサリー州ゴダルミング(Godalming )にあるチャーターハウス校で教鞭を執った。 この時の生徒の中に、後に詩人になるロバート・グレーブス(Robert Graves )がおり、1918年のグレーブスの結婚式ではマロリーが付き添い人を務めているのです。

この間に登山の腕も磨き、1911年にはモンブランに挑み、モン・モディ(Mont Maudit )の前壁を征服している。 1913年までにマロリーはイギリスの湖水地方にあるピラー・ロック(Pillar Rock )の登頂に成功する。 このときマロリーが登ったコースは現在「マロリー・ルート」と呼ばれ、登山難易度は5a(アメリカ式では5.9)と評価されており、イギリスの山では最も難しいコースの1つである。

ジョージ・マロリーがチャーターハウス校在任中、マロリーはゴダルミングに住むルース・ターナーという女性と出会い、1914年に結婚した。 2人の間には1915年に長女クレア、1917年に次女ベリッジ、1920年に長男ジョンの3人が生まれた。

しかし、第一次世界大戦の勃発に伴い、1915年12月王立砲兵連隊(Royal Garrison Artillery )に入隊し、悲惨なソンムの戦いに従軍した。 戦争が終わると、マロリーはチャーターハウス校に戻ったが、1921年にエベレスト遠征隊に参加するため、学校を離れる。 離職後著述と講義によって生計を立てようと考えたが、あまりうまく行かなかったようで、 結局 1923年ケンブリッジ大学の校外公開講座局(Extramural Studies Department )に職を得た。

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※; エベレスト委員会(The Mount Everest Committee)は1920年にイギリスで王立地理学会と英国山岳会がエベレスト遠征隊の組織と資金援助を目的に共同で設立した委員会。 1947年まで活動した後「ヒマラヤ委員会」(Joint Himalayan Committee)に形を変えて活動を継続し、1953年のイギリス隊によるエベレスト初登頂を成し遂げるにいたった。

英国でエベレストへの登頂が初めて具体的に語られたのはいつか? クリントン・トマス・デント(Clinton Thomas Dent)は1885年に著作の中でエベレスト登頂の可能性に言及している。 具体的な計画ということでは1916年にアレキサンダー・ケラス博士(Alexander Mitchell Kellas)が著した『ヒマラヤ雄峰への登頂の可能性に関する考察』をあげることができる。

さらに実際に遠征隊派遣の機運が高まった直接のきっかけは、1919年にジョン・ノエル(John Baptist Lucius Noel)が王立地理学協会で行った講演である。 ノエルは外国人が入ることが許されなかったエベレスト周辺地域を秘密裏に探索し、その報告を王立地理学協会で行ったのだ。

講演後のディスカッションの中でエベレスト登頂に関する議論が盛り上がったが、この考えを積極的に支持した人の中にはフランシス・ヤングハズバンド卿(Francis Younghusband)=極東や中央アジア探検で知られ、わけても1904年のチベット行ではチベット人の虐殺事件を起こした。アジア情勢や外交政策に関する著作がある。チベット行政長官や王立地理学会長を歴任。軍での最終階級は中佐。インドの星勲章 (KCSI) 、インド帝国勲章 (KCIE) 受章=やダグラス・フレッシュフィールド(Douglas Freshfield)など英国山岳会の大物たちがいた。

1920年、ヤングハズバンド卿は、チャールズ・ハワード=ベリ大佐に遠征隊長就任を要請し、チャールズ・ベル(Charles Alfred Bell)に入山交渉の許可を得る為のチベット当局との交渉を依頼した。(当時はチベットの北側からしかエベレストに接近できなかった。エベレスト南側のルートを領するネパールが外国人に対して国を閉ざしていたためである。) チベットから入山許可が得られたのは1921年のことであった。 ここで、遠征隊をバックアップするために英国山岳会と王立地理学協会がメンバーを出し合って特設委員会である「エベレスト委員会」を発足させ、ヤングハズバントが委員長になった。

過日の事、1893年、東アジアで軍人として活躍したフランシス・ヤングハズバンドとグルカ連隊の勇将チャールズ・グランヴィル・ブルース准将 (Charles Granville Bruce) がエベレスト登頂について話し合ったのが具体的なエベレスト登頂計画の嚆矢であるといわれる。

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1907年には英国山岳会の創立50周年記念行事としてエベレスト遠征隊の派遣が提案された。 この時代、北極点到達(1909年)および南極点制覇(1911年)の競争で敗れていたイギリスは帝国の栄誉を「第三の極地」エベレストの征服にかけようとしていた。

第一次大戦の勃発によって計画は先送りになるが、戦争の終結とともに英国山岳会と王立地理学協会がエベレスト委員会 (Mount Everest Committee) を組織し、ヤングハズバンドが委員長となって、ここにエベレスト遠征が具体化し始めたのだ。

1921年、エベレスト委員会によって第一次エベレスト遠征隊が組織される。 隊長にはグルカ連隊で長年勤務し、地理に明るく、地元民の信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がふさわしいと思われたが、軍務のため断念し代わってチャールズ・ハワード=ベリ (Charles Howard-Bury) 中佐が選ばれた。

隊員としてカシミール地方に詳しく高度と人体の影響に関しての専門家であったアレキサンダー・ミッチェル・ケラス博士、ハロルド・レイバーン、そして気鋭の若手として有名なジョージ・マロリー  とジョージ・イングル・フィンチ (George Ingle Finch) が選ばれた。 フィンチは後に健康状態を理由に交代させられ、代わってマロリーの推したガイ・ブロック (Guy Bullock) が選ばれた。

この第一次遠征隊の目的はあくまで本格的な登頂のための準備偵察であったため、一行はエベレストのノース・コル(North Col、チャン・ラとも呼ばれる、標高7020m)にいたるルートを確認し、初めてエベレスト周辺の詳細な地図を作成した。

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19世紀から20世紀前半にかけて、世界では未知なるものを求める探検熱が大いに高まっていた。 この頃の人類の科学技術は飛躍的な発展を遂げていた事から、その恩恵を受けて大陸の奥地から、太洋の隅々まで探索する事も可能となっていた。 新たなる発見は、国威発揚と、経済的な利益にも繋がっていたから、各国は熱心に探検隊を送り出していった。

その中でも、軍事力、経済力のあった欧米諸国は地理上の空白地を次々に埋めてゆき、やがて、人類未訪の地は、北極、南極、そして、第3の極地と言われているエベレスト(ネパール名サガルマータ)のみとなる。 欧米諸国は、この残された人類未踏地に自らの国旗を打ち立て、国家の威信を指し示すべく、一番乗り競争にやっきとなった。

-1920年4月6日- には、アメリカのロバート・ピアリーが北極点に到達し =これには異論もあるが=  -1911年2月14日- には、ノルウェーのロアルド・アムンゼンが南極点に到達する事に成功する。 いずれも、世界史に残る偉業であった。

当時の世界大国イギリスも、負けじと北極、南極=スコット隊=に遠征隊を送り込んでいたのだが、いずれにおいても遅れをとった。 残された未踏の地は、第3の極地にして、世界最高峰であるエベレスト(標高8848m)のみとなる。 イギリスは今度こそ、世界に先駆けてこの前人未踏の地を征し、帝国の威信を内外に示そうと試みた。

そして、 -1921年- イギリスは、第1回遠征隊をエベレストに送りこむ。 エベレストが生易しい山で無い事は分かっていたから、第1回遠征隊の目的はまずこの山を徹底的に偵察し、一番易しい登頂ルートを見出す事にあった。

マロリーを含む3人の登山者は苦心の末、北稜の7千メートル地点にまで達した。 そこから、マロリーは雪煙たなびくエベレストを見つめた。 今回はここまでであったが、マロリーは頂上への登坂可能なルートを見出して満足であった。 マロリーの残した言葉、「大胆な想像力で夢に描いたものより遥か高みの空に、エベレストの山頂が現れた」

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=gR0aWPQZa_0#t=0

《Tribute/Homenaje George Mallory & Andrew Irvine;

YouTubu動画 ジョージ・マロリーのエベレスト挑戦》

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===== 続く =====

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