登山家ジョージ・マロリーの横顔=04/9=

=ジョージ・マロリー(イギリス)=

The Killers – Be Still (To Mallory & Irvine)

https://youtu.be/SASZZ8BEK4w

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  エベレストへの挑戦 

-1999年- マロリーを捜索するプロジェクトが発足し、その登山隊が、エベレストの標高8160メートル付近で真っ白に凍りついたマロリーの遺体を発見した。 マロリーの遺体は低温によって保たれ、遺体はそれほど損傷してなかったものの、足や助骨には骨折が見られ、また額の頭蓋骨が大きく破損していた。

この頭部の損傷が、致命傷であったようすだ。 マロリーは日没後に下山を開始し、その最中に足を踏み外して滑落死したものと推測されてる。 マロリーの遺体からは高度計・イニシャルを縫いこんだスカーフ・手紙数通・ポケットナイフ等が出てきたものの、残されていた遺留品の中に、マロリーが頂上に置いてくると言った妻の写真や、登頂の証拠となりうるコダックのカメラは発見できなかった。 また、この調査ではアーヴィンの遺体は発見する事ができなかった。 =上記リンクにて動画記録の閲覧可能=

マロリーとアーヴィンは登頂は果たしたものの、下山中に遭難をしたという説がある。 しかし、イタリアの著名な登山家、メスナー=前章記載・参照=は、エベレストにはセカンドステップと呼ばれる難所があり、それを当時の装備で越えるのは不可能であるとして、マロリーのエベレスト登頂を否定している。 例えマロリーが登頂に失敗していたとしても、その勇気と意志は称賛に値するものだろう。

まだ、誰しもが足を踏み入れていない、そして、どこよりも高い山、エベレストに挑戦するのは並大抵の人間には出来ない事ではない。 私個人は、マロリーは登頂を果たしていたと思っている。 エベレストの山麓を彷徨い、また ベースキャンプまで登り行 実感した。 貧弱な装備であっても、彼の意志と能力、そして、友人であるアーヴィンとの絆があれば、不可能も可能にしたのではないかと。

はたして? その答えはヒマラヤ最高峰の雪の中に埋もれている・・・・・・

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  1922年のエベレスト第2次遠征隊は、3度の頂上アタックを行った。7 ,620mの地点に設けられた第5キャンプから第1次アタックチームを率いたマロリーは、酸素ボンベなどは信頼性が低いと考えてこれを用いず、サマヴィルやノートンらと無酸素で北東稜の稜線に達した。 

 薄い空気に苦しみながら、一同は8,225mという当時の人類の最高到達高度の記録を打ちたてたが、天候が変化し、時間が遅くなっていたため、それ以上の登攀ができなかった。 

 次にジョージ・フィンチとウェイクフィールド、ジェフリー・ブルースからなる第2次アタックチームは、酸素ボンベを担いで527日に8321mの高さまで驚異的なスピードで到達することに成功した。  

 ブルースの持っていた酸素器具の不調で第2次チームが戻ってくると、マロリーはフィンチ、サマヴィルと第3次アタックチームを編成して山頂を目指そうとした。 しかし、マロリーらがシェルパとともにノース・コルを目指して斜面を歩いている時に雪崩が発生して7名のシェルパが命を落としたため計画は破棄され、一行はベースキャンプに戻った。 

 マロリーは帰国後、第2次遠征隊で犠牲者が出たことを批判されることになるが、山頂まであと一息という思いは他の隊員と変わらなかった。

 英国山岳会と王立地理学協会が組織したエベレスト委員会 (Mount Everest Committee)は、 1924年の第三次遠征隊に 1922年同様 隊長をブルース将軍ににんめいした。 副隊長にはノートン大佐がえらばれ、隊員として経験者のジョージ・マロリー、ジェフリー・ブルース、ハワード・サマヴィルが選ばれた。 さらにベントリー・ビーサム (Bentley Beetham) E・シェビア (E.O. Shebbeare)、地質学者でもあったノエル・オデール (Noel Odel)、マロリーと最期を共にしたアンドリュー・アーヴィン (Andrew Irvine) らが選ばれた。 

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 一行は228日にリヴァプールを出航、3月にダージリンへ到着し、3月の終わりにダージリンから陸路エベレストを目指したが、道中でマラリアのためブルース将軍が離脱、ノートンが隊長になった。 

 428日、遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプを設営し、そこから順にキャンプをあげていった。 彼らは7000m付近に第四キャンプを設けて頂上アタックの拠点とし、そこから頂上までの間に2つのキャンプを設けることにした。 

 マロリーはジェフリー・ブルースおよびノートン、サマヴィルらと山頂を目指したが失敗し、66日、22歳の若いアンドリュー・アーヴィン1人を連れて第四キャンプを出発、再びノース・コル経由で山頂を目指した。 しかし、2人はこのまま行方不明になり、第三次遠征隊は山を下りた。 

 そして、エベレストへの挑戦は、第三次遠征隊が許可のないロンシャール谷に入っていたこと、彼らが帰国後に上映した記録映画の中で紹介されたチベット人の習俗が不正確であったことが当時のダライ・ラマを怒らせ、以後9年間エベレスト入山の許可が出なかった。 

 YouTubu動画;Tribute/Homenaje George Mallory & Andrew Irvine

http://www.youtube.com/watch?v=gR0aWPQZa_0 

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※;ノエル・ユワート・オデール(Noel Ewart Odell、1890年12月25日 – 1987年2月21日)はイギリスの登山家、地質学者。 1924年のエベレスト遠征隊の一員として、頂上へ向かうジョージ・マロリー、アンドリュー・アーヴィンの最後の姿を目撃したことであまりに有名。 このとき、オデールは高度7000m以上の場所で酸素なしで二週間過ごすという驚異的な記録を残している。

1924年6月8日、ジョージ・マロリーとアンドリュー・アーヴィンがノース・コルをへて頂上を目指した。 オデールはたまたま霧が晴れた12:50ごろ、二人が北東稜から「ステップ」を越えて頂上への最後の登りへと力強く進んでいる姿を見た。 しかし、頂上へ到達した証拠は何もない。 二人はそのまま行方不明になり、山頂付近で命を落としたと考えられている。 オデールは生きている二人の最後の姿を見た唯一の目撃者になった。

1924年6月から11月に書かれた二つの報告の中で、オデールはマロリーとアーヴィンを見たのは間違いなくセカンド・ステップの上であったと断言している。 1925年に発行された遠征隊報告書では、(他のメンバーたちの悲観的な見方に影響されて)オデールの言葉にぶれが生じ、「セカンド・ステップあるいはより低い部分」という言い方に変わっている。 その後、オデールはひょっとすると「ファースト・ステップ」だったもしれないと意見を変えているが。

事実は、二人が行方を絶ったあと、オデールは自らの身の危険を顧みず、一人ノース・コルから8500m付近まで上がって捜索を続けたのだ。

彼は、1936年 ビル・ティルマンとともにナンダ・デヴィに挑み、登頂に成功した。 この記録は1950年まで人類の最高到達高度の記録であり続けた。 1938年には隊長に選ばれたビル・ティルマンに誘われ再びエベレスト遠征隊に加わっている。

オデールは登山家としてだけでなく、幅広い分野で活躍、たとえば二度の世界大戦に王立工兵隊の一員として従軍し、地質学者としては石油や鉱山関係のさまざまな企業で相談役をつとめ、ハーバード大学やケンブリッジ大学など多くの大学で教壇に立った。

登山家としては、1919年にスノードニア山系にあるイドワル・スラブの「テニス・シュー」に初単独登頂の記録があり、ニューハンプシャー州にあるワシントン山のオデール・ガリーは彼が冬季初登頂に成功したことからオデールの名がつけられている。

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 アンドリュー・アーヴィン(英Andrew “Sandy” Comyn Irvine1902428日-192468日もしくは9日)はイギリスの登山家、イギリスによる第3次エベレスト遠征隊(1924年)に参加した。エベレスト初登頂を目指し、アーヴィンとジョージ・マロリーはエベレスト北壁に挑戦したが、そこで姿を消した。 彼らが最後に目撃されたのは、山頂からわずか数百メートル手前であった。 

 アーヴィンはイングランド、チェシャー州(現在はマージーサイド)のバーケンヘッドで、スコットランド、ウェールズに起原を持つ家族に元に生まれた。 名門一族である。 アーヴィンはバーケンヘッド校(en:Birkenhead School)とシュローズベリー校(en:Shrewsbury School)で学んだ後、オックスフォード大学のマートンカレッジ(en:Merton College, Oxford)で技術者になるために学ぶ。

 彼は熱心なスポーツマンであり、ボート競技に長けていた。 そのため、1922年、23年とザ・ボート・レースのオックスフォード大学のメンバーに選出されている。 

 1923年、アーヴィンは、オックスフォード大学のスピッツベルゲン遠征隊=ノルウェー領スヴァールバル諸島最大の島=に選出され、アーヴィンはあらゆる局面で優れた能力を見せている。 この時、アーヴィンと遠征隊のリーダー、ノエル・オデール=上記=はフォエルグラッチェ(en:Foel Grach、ウェールズ)山頂で出会ったことがあったことをお互いに思い出し、相互に信頼を増した。 

 その後、オデールがイギリスによる第3次エベレスト遠征隊に選ばれた時、アーヴィンの高い能力を認める彼は、遠征にアーヴィンが必要だと考え、推薦、アーヴィンは遠征隊の一員となった。 この時、アーヴィンはまだ21歳の学生であった。 

 インドへ向かう船の中で、アーヴィンと親しくなったジョージ・マロリーは妻に「アーヴィンはどんな時でも頼りになる、おしゃべり以外は」と書き送っている。この遠征で、アーヴィンは山岳用酸素ボンベの機能性、重量、強度などの確認を行ってその問題点を洗い出し、遠征後に酸素ボンベを再設計して、改良する予定となっていた。 

そして、さらには、遠征中使用するカメラ、キャンプ用寝具、プリマス・ストーブなどの多くの機器の維持管理を担当した。 アーヴィンは遠征隊で人気があり、気さくで発明の才能があり、激務にも耐えたため、年上の同僚たちも敬意を払っている。

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===== 続く =====

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