探検家群像=角幡唯介= 03

角幡唯介、日本のノンフィクション作家・探検家

≪ 動画資料; 北極点への旅 ≫

https://youtu.be/lSIFtforNk8

北西航路ー2

【 北西航路;資料① 】

北西航路(Northwest Passage)は、北アメリカ大陸の北方を通って大西洋と太平洋を結ぶ航路である。 北西航路とは、北アメリカ大陸の北側にあるカナダ北極諸島の間を抜けて太平洋と大西洋を結ぶ航路のことであり、ヨーロッパから北西へ延びる航路であることからその名がついた。 この航路は、ヨーロッパから見て北東へ延び、ユーラシア大陸の北側(ロシア沖)を通って太平洋と大西洋を結ぶ北極海航路(北方航路、Northern Sea Route、20世紀初頭には北東航路 Northeast Passage として知られていた)と一対をなす。

具体的には、北太平洋側のべーリング海峡から北西航路を通る場合、

北太平洋→ベーリング海峡チュクチ海ボフォート海→北極諸島を貫く海峡群→バフィン湾デービス海峡→北大西洋

の順に通過する。北極諸島を貫く海峡群を通るにはマクルアー海峡ディーズ海峡プリンスオブウェールズ海峡など5つから7つの異なる航路があるが、水深が浅く大型船の航海に向かないところもある。 なお、北極諸島の島々やカナダ本土を隔てる海峡を北西航路の一部と呼ぶこともある。

大航海時代のの16世紀以来、ヨーロッパとアジアを結ぶ大圏航路であり最短航路になりうると考えられた北西航路の発見に多くの探検家が挑んできた。 北極や北アメリカ沿岸の探検に向かった航海者たちの動機の多くは北西航路の発見であり、彼らの探検の過程でカナダ北部やアラスカなどの姿がわかるようになった。 しかし北極海は夏でも融けない流氷・海氷や氷山があり、船が氷に閉じ込められ押しつぶされることもあるなどその環境は過酷で非常に多くの探検家が犠牲となり、20世紀まで横断航海に成功した者はいなかった。 最初に北西航路を船で横断した人物は、南極点到達でも有名なロアール・アムンセンである。 彼は1903年から1906年にかけて小さな船で大西洋から太平洋へと抜ける航海を成功させた=記載済み、前章参照=。

北西航路ー3

近年、全地球的な気候変更により北極圏が温暖化し、北極海の氷の範囲が縮小し氷結する期間も減り、砕氷船でなくても北西航路が航行可能になってきた。 2007年8月21日には流氷の減少により、砕氷船なしで北西航路が全て通れる状態になった。 ノルウェー極地研究所によれば、これは1972年の記録開始以来初めての事態であった。 今後、北西航路の開発が進み従来のスエズ・パナマ経由航路より距離が短い定期航路が作られれば、時間や燃料費を節約できるため世界の海運や物流が大きく変わるとみられる。 また北極海の沿岸や海底に眠る資源開発も容易になると期待される。しかしこの海域をめぐる領有権問題が事態を難しくしている。 カナダ政府は北西航路の一部をカナダの領海に当たる「内水」としているが、多くの国はこれらの海峡を自由な国際航行の可能な国際海峡であるとして対立している。

北西航路の歴史の概要

北欧のヴァイキングたちは西への航海の末にグリーンランドへ入植し、さらに北および西への航海を進めた結果、エルズミーア島・スクレリング島・ルイン島にまで到達した。 彼らは「スクレリング」と呼ぶ先住民たちとの交易や海獣の狩猟を行う一方、スクレリングたちとしばしば対立したことが記録に残っている。 しかし小氷河期(14世紀-19世紀)の到来を一因としてバイキングはグリーンランドを放棄し、この先へのヨーロッパ人による航海は15世紀末まで途絶える。

15世紀終わりから20世紀にかけて、欧州列強諸国は航海者や探検家を各大洋に送り出し、東アジアに向かう海路を発見しようとした。 いわゆる大航海時代である。 その中でアフリカ大陸南端の喜望峰からインド洋に出る航路、大西洋を横断しメキシコ東岸に到着、さらに西岸から太平洋の向こうのアジアに至る航路がスペインやポルトガルによって開発されていたが、それを決定づけたのが1494年、ローマ教皇アレクサンデル6世の仲介でスペインとポルトガルの間に結ばれたトルデシリァス条約である。 これによりヨーロッパ以外の新発見の土地の両国間での分割が取り決められフランス・オランダ・イギリスといった後発の諸国は、新領土の獲得競争からも既存のアフリカ回り・南アメリカ回りのアジア行き航路からも締め出された。

事態を打開し、より短いアジアへの航路を発見すべく、イギリスはヨーロッパから北西に向かい北アメリカの北岸を回ってアジアに至る仮説上の航路を北西航路Northwest Passage)、ヨーロッパから北東へ向かいシベリア沖を経てアジアに至る同じく仮説上の航路を北東航路Northeast Passage)と呼び、とりわけ北西航路の発見を目指した。 すでに中南米を確保していたスペインも、イギリスやフランスより先に北西航路を発見しようとした。 こうして、アジアへの最短航路発見の夢が、ヨーロッパ人による北アメリカ大陸の東海岸と西海岸に対する探検活動の動機となった。

北西航路ー1

当初、探検家たちは北アメリカ大陸中央部を横断する海峡や河川の発見を目指したが、そういうものがないことが分かると、北の方からアメリカ大陸を回る北西航路の探索に注目した。今日では酷寒の地と分かっている北極圏において、根拠もなく安定した航路の存在が信じられていたわけではない。 例えば夏期においては白夜により夜間の気温低下が発生しないため、北極点周辺の海は結氷しないという推論や、18世紀半ばジェームズ・クックの報告により南極海の氷山が真水でできていることがわかり、海水は凍らないという仮説が存在した。 このような原因で北極海中央が海水面であるとすれば、流氷や氷結によって航行が阻害されるのは大陸周辺の一部海域のみということになり、航路の設定も可能なはずとされた。

また海流や海路についての研究を成し遂げた19世紀半ばのアメリカ海洋学の父マシュー・フォンテーン・モーリーは、北大西洋で捕獲されたクジラから北太平洋の捕鯨船のモリが見つかったことから太平洋と大西洋が北極海でつながっていると推論し北西航路や北東航路の可能性を主張した。 同時にモーリーは、メキシコ湾流や黒潮など北方へ向かう暖流が北極海で海面に上昇すると考え、北極点付近には氷がなく航行可能な開水域が広がっていると推論した。 このように北西航路の存在は当時としては妥当とされた科学的考察に基づいたものだったのである。

こうした説が広く信じられたことから、何世紀にも亘り北西航路を求めて極寒の海に探検隊が送り続けられることになる。彼らの中には悲惨な失敗をたどったものも少なくない。特に有名な失敗は、1845年に出発したジョン・フランクリンによる北西航路探検隊の全滅である。 1906年になりようやく、ロアール・アムンセンがヨーア号(Gjøa)でグリーランドからアラスカまで航海することに成功した。 これ以後、氷圧に耐えられる船による航海が何度も行われている。

北極圏ー4

===== 続く =====

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