探検家群像=角幡唯介= 04 

角幡唯介、日本のノンフィクション作家・探検家

≪ 動画資料; Mystery of North Pole, but Why ≫

https://youtu.be/jrvmhkpeXjY

北米想像図

【 北西航路;資料② 】

北大西洋の航海史跡

記録に残っている中で、北西航路を発見しようという最初の試みはジョン・カボットによる1497年の航海である。 イングランド王ヘンリー7世はカボットをオリエントへの直通航路を探すために派遣した。 彼はプリストルを出航したものの失敗。 翌年、息子のセバスチャン・カボットを伴って再び船団を率い、ヴァイキングの航路を辿ってカナダ東南岸のケープ・ブレトン島に到達し、ニューファンドランド島ラブラドル半島を発見するなどの成果を挙げて帰国した。 そして、1498年にも探検隊を組織し、グリーランド東西沿岸の調査航海を行ったものの船員の叛乱によって南下を余儀なくされ、その途上で没した。 この二度目の航海でデラウェアチェサピーク湾を発見したことは、イギリスがフロリダ以北の北米大陸の所有権を主張する根拠となった。

1576年、イギリスが派遣したマーティン・フロビッシャーは北西航路を求めてアメリカ北部へ3回航海し、カナダ北極諸島に達したが先には進めなかった。 バフィン島南部のフロビッシャー湾は、この地に到達したフロビッシャーの名に由来する。 北西航路の発見の可能性についての論文の著者でフロビッシャーの後援者でもあったハンフリー・ギルバートは1583年、北大西洋を横断してニューファンドランド島をイギリス領と宣言した。 1585年8月8日、イギリス人探検家のジョン・デービスはバフィン島の東部のカンバーランド湾に入り、バフィン島とグリーンランドの間のデービス海峡の通過に成功した。  北アメリカ東海岸には大きな河口や湾が多く、これらが奥で北アメリカ大陸を横断する海峡につながっているのではないかという期待もあった。 ジャック・カルティエセントローレンス川探検も、当初は大陸を横断する水路の発見を期待してのものだった。 カルティエはセントローレンス川を北西航路だと信じようとし、モントリオール付近で急流に行く手を阻まれたときにはこれが中国への道を阻むものだと考えて「中国の急流」と名づけた。 これが現在のラピッド・ドゥ・ラシーヌ(Rapides de Lachine)と呼ばれる急流地帯である。

ハドソンー1

ヘンリー・ハドソンはイギリス東インド会社やオランダ東インド会社などに雇われ、北西航路や北東航路を求めて何度も北極海や北アメリカ沿岸の探検に挑んだ。 ハドソン川も1609年に東海岸探検の過程で発見されたが、これも太平洋に続く水路ではなかった。 1610年には再び北極海に挑み、「怒り狂う逆波」と呼ばれた流れの激しいハドソン海峡を越えてついにハドソン湾に達したが、氷に阻まれこの先に進むことはできず、ハドソン自身は船員の反乱にあい船を降ろされ行方不明となった。

他方、北西航路を発見する試みの多くはヨーロッパや北米東海岸を起点として西へ進もうというものだったが、西側からの北西航路探検も進められた。 1539年、メキシコを征服したスペイン人探検家エルナン・コルテス(拙文・アステカ文明の興亡参照)はフランシスコ・デ・ウヨア(Francisco de Ulloa)を西海岸へ派遣し、北アメリカ沿岸の探検を命じた。 ウヨアはアカプルコを出港して太平洋岸沿いに北上しカリフォルニア湾内を進んだが、湾の北端に達してしまいその先への出口を発見できず、半島を回って帰ってきた。 湾の北端を発見したというウヨアの報告は、バハ・カリフォルニア半島が「カリフォルニア島」という島であるという通説を覆すには至らず、かえって「カリフォルニア島」を描いた地図作りに利用されたほか、カリフォルニア湾こそ北アメリカを貫き東海岸のセントローレンス湾へと続く想像上の海峡(中国とアメリカの間にある「アニアン海峡」)の南端部分だ、という通説を補強してしまった。 ウヨアは、以後数世紀続くアニアン海峡探索の先駆者となった。

ハドソンー3

アニアン海峡(Strait of Anián)という架空の海峡の名は、マルコ・ポーロの東方見聞録に登場する中国の地名アニア(Ania)に由来すると見られ、この海峡はイタリアの地図製作者ジャコモ・ガスタルディ(Giacomo Gastaldi)が1562年頃発行した地図に初めて登場した。 5年後のボロニーニ・ザルティエリ(Bolognini Zaltieri)の発行した地図にはアジアとアメリカの間に狭く曲がりくねったアニアン海峡が登場する。 ヨーロッパ人の想像の中でアニアン海峡は次第に大きくなり、キタイ(中国の王朝)の大ハーンの宮殿とヨーロッパを直結する航路となった。 北アメリカ北東部海岸を探検した航海者らは、このアニアン海峡を通じたアジア交易を求めてアメリカを探検したのである。

フランシス・ドレークも1579年に北アメリカの太平洋岸を航海しアニアン海峡の西出口を探した。 1592年にはギリシャ人航海士ファン・デ・フカ(Juan de Fuca)がアニアン海峡の入口を見つけ、北の海へ往復して帰ってきたと主張し、後世まで議論される。 また1640年にはスペイン人バーソロミュー・デ・フォンテ(Bartholomew de Fonte)もハドソン湾から太平洋へアニアン海峡を通って航海したと主張した。 1765年に作成された地球儀には、北米大陸の北方はまだ様子が分からず想像上の海峡や海が描かれている状況であった。

一方ロシアでは、1648年にセミョン・デジニョフが東シベリアのコリマ河口から北極海を経てチュクチ東側へ向かう航海を行い、アラスカとユーラシアが海で隔てられている事を発見したが、この記録は19世紀後半まで忘れられたままになった。 1728年、ロシア帝国海軍士官であったデンマーク人ヴィトゥス・ベーリングはデジニョフが使った海峡を発見してアラスカとユーラシアの間が陸続きでないことを再確認している。 この海峡はベーリング海峡と呼ばれるようになったが、1741年に彼はアレクセイ・チリコフとともにカムチャッカ半島を発ちアラスカ探検に再び向かったが、ベーリングとチリコフの船は途中ではぐれてしまった。 チリコフは南方のアレキサンダー諸島にまで流され、アリューシャン列島のいくつかの島に到達。 一方ベーリングはアラスカ本土からアリューシャン列島を測量したが途中で壊血病のため多くの死者を出し、西へ戻ろうとした探検隊はコマンドル諸島へ流されベーリングも死に、カムチャツカに戻った隊員はわずかであった。

ハドソンー2

===== 続く =====

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