探検家群像=角幡唯介= 05

角幡唯介、日本のノンフィクション作家・探検家

アニアン海峡

【 北西航路;資料③ 】

北大西洋の航海史跡

1762年、イギリスの貿易船「オクタヴィウス」(Octavius)は危険を冒して西から北西航路を通過しようとし、ベーリング海峡に入ったとされるが海氷に行く手を阻まれ進めなくなってしまった。 13年後の1775年、グリーンランド近海で捕鯨船ヘラルド号(Herald)が漂流中のオクタヴィウス号を発見し、甲板の下で凍りついた乗組員の遺体を発見した。 オクタヴィウス号は西洋の船としては最初に北西航路を西から東へ通過したことになる=ただし通過に13年間かかり、その間に全員が死亡している。 またオクタヴィウス号の記録についても真実性に疑問はあるが=。

スペイン船は18世紀後半、メキシコを拠点に北米大陸の北西岸をたびたび航海した。 その動機の一つはロシアのアラスカ進出とカリフォルニアへの南下に対する警戒であったが、そのほかの動機にはやはり北西航路の発見があった。 スペイン人による探検のうち重要なものには、1775年から1779年にかけて北西航路の西端を見つけるための調査を行ったファン・フランシスコ・デ・ラ・ボデガ・イ・クアドラ(Juan Francisco de la Bodega y Quadra)の航海がある。 クアドラの副官として仕えたフランシスコ・アントニオ・モウレル(Francisco Antonio Mourelle)の航海日誌が英訳されロンドンで出版された。 この書籍が海洋探検に一石を投じ、後にジェームズ・クック(拙文・探検家クック参照)も北米西海岸の探検の参考とした。

デイヴィス

 スペインは西回りでインド・中国に至る航路開発に躍起であった。 1791年にはアレッサンドロ・マラスピナ(Alessandro Malaspina)がアラスカ南東部にあり北西航路の入口とも噂されていたヤクタト湾(Yakutat Bay)に達し、1790年と1791年にはフランシスコ・デ・エリサ(Francisco de Eliza)が同じく北西航路の入口の可能性があるとされたファンデフカ海峡を航海しジョージア海峡を発見している。 この内海を完全に探検するために、1792年にディオニシオ・アルカラ・ガリアーノ(Dionisio Alcalá Galiano)の探検隊が、北西航路の可能性のあるすべての海峡や入り江の調査を命じられ、ジョージア海峡に送らたのであるが・・・・・・・。

 他方、海洋帝国を築き上げようとする大英帝国では、1745年に北西航路の発見者に賞金を出す法案を成立させ、1775年の法案延長時には賞金は2万ポンドに上積みされていた。 そして翌年、この賞金を得ようとしたイギリスの海軍本部は、ジェームス・クック(キャプテン・クック)を航海へと派遣した。 クックは二度の太平洋航海を行って引退していたが、ベーリングの航海結果に探検欲を刺激され、航海に出ることになった。 この航海に同行した士官にはウィリアム・ブライジョージ・バンクーバージョン・ゴアといった後のイギリス海軍の探検家となる者たちも参加していたが、彼らは北西航路の存在は証明できないと考えていた。

フロビッシャー

 クックは太平洋を航海しヨーロッパ人として初めてハワイに到達し、1777年4月にヌートカ湾(Nootka Sound、バンクーバー島西海岸)を出たクックは北西航路を西から東へ航行するためまず北米西海岸沿いに北へ向かい、ロシア人たちが40年前に通ったアラスカの沿岸の詳細な海図を作成し学術調査を行った。 海軍本部の命令は北緯65度に達するまでは途中の川や入り江は無視せよとの内容だった。 しかし一行が北緯65度に達する前に海岸線は南西方向へ向きを変え、一行は緯度の低い方へと押しやられていった。

ゴアはクックを説得し、航路を見つける望みを託して、北へ切れ込んだクック湾へと入って行ったがその先は行きどまりであった。 一行は海岸線に沿ってさらに南西へ進み、ついにアラスカ半島の先端を越えベーリング海へと入ることができた。 だが北緯65度を越え、70度に達したところでベーリング海峡の氷山と流氷に行く手を阻まれ、その先に進むことはできなかった。クックらはロシア人たちの発表した「見せかけだけの発見」と、地理学上の幻想にすぎなかった北西航路を呪いながらハワイ諸島に戻った。 しかし、クックは偶然の誤解から原住民との諍いでハワイで戦没し、副官・クラークらは再度ベーリング海峡に挑戦したが失敗し、一行はイギリスへ戻っている。

クック湾

 1791年から1735年にかけて、クックの後継者であるジョージ・バンクーバーはヌートカ湾やハワイ、サンフランシスコ(当時スペイン領)などを拠点にブリティシュ・コロンビアを中心とした北米西海岸を探検し海岸線の調査を行い、ベーリング海峡以南には北西航路へ抜ける水路は存在しないことを明らかにした。 この結論は、カナダ内陸から北極海までの広い範囲を探検し、1793年に陸路でカナダの太平洋岸へ到達したアレグザンダー・マッケンジーの記録によって裏付けられた。

ジョウジア海峡

===== 続く =====

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