探検家群像=角幡唯介= 07 

角幡唯介、日本のノンフィクション作家・探検家

フランクリン-2

【 北西航路;資料⑤ フランクリン遠征】

ジョン・フランクリン隊の発足

1845年、十分な装備を整えた二隻の軍艦が、ジョン・フランクリン卿に率いられてイギリスからカナダの北極海への探検に出港した。 この航海は北西航路の最後に残った不明箇所の海図を作ることが目的だった。 フランクリン自身やほかの探検家たちによる調査で、カナダ北極海沿岸の未踏の海岸線はあと500kmを残すほどになっており、暖房や食料も豊富に持った探検隊は成功の自信に満ちていた。 しかし3年経っても探検隊は戻らず、数多くの救助隊や捜索隊が艦隊を組んで彼らの行方を捜して北極に向かったが、さらに多くの遭難者を出す結果になった。 しかしこれらの捜索隊が北極諸島にある未知の島や海峡を多く発見し、北西航路の残りの海図を作成している。 129人の探検隊が北西航路のどこに消えたのかという謎は大衆の想像力を刺激し、夫の遭難を信じず自費で捜索隊を組織するフランクリン夫人はイギリス中の注目を集める。

ヨーロッパ人が、ヨーロッパからアジアまで最短距離(大圏航路)で結ぶ海の近道を探し始め(1492年)、19世紀半ばまで、主にイングランドから一連の探検隊が極地を通る最短の海路(北西航路北東航路)を探した。 数幾体の航海は、それぞれ成功の程度は異なるものの、北アメリカの北緯周辺についてヨーロッパ人の地理的知識を増やしていった。 その知識が深まるに連れて、次第にカナダ北極圏に関心が向くようになった。 しかし、最終的にわかったのは、太平洋と大西洋を結ぶ航路は温暖な緯度の範囲内はすべて大陸でふさがれており、船が航行できるような北西航路はこの範囲内には無いということだった。

フランクリン-1

海上の覇権を自負する大英帝国において、1804年、ジョン・バロウ卿が海軍本部副大臣となり、その職を1845年まで長期にわたって務めた。 バロウはイギリス海軍を突いて、カナダの北の北西航路、さらには北極点への航路を極めさせようとした。 その後の40年間の探検家としては、ジョン・ロスを筆頭格としてブキャン、パリー、ビーチー、ロス、バック、ディーズ、シンプソン等がカナダ北極圏で意義ある航海を行った。 これら探検家の中にジョン・フランクリンがいた。 1845年までに、それまでの遠征隊が発見したこと全てから、カナダ北極圏で未踏の地域は約181,300 km2の四角形が残されているだけになっていた。 この年にフランクリンが航海することになったのがこの未踏領域であり、ランカスター海峡(前節参照)から西に進み、その後は氷、陸、その他障害物が許す限り西と南に進んで、北西航路を完成させる意図があった。 航行距離は約1,670 kmに及ぶ計画であった。

ジョン・バロウ卿はこの時82歳であり、その経歴の終わりに近づいていた。 北西航路を完成させる遠征の指揮官を誰にすべきか検討していたが、おそらくバロウは北極点周辺の海には氷がない開けた水面が広がっているという理論を信じており、それを見つけることも視野にあった。 ウィリアム・エドワード・パリーがバロウの第1の選択肢であったが、北極海に飽きてきており、丁重に彼は辞退した。 第2の候補者はジェイムズ・クラーク・ロスだったが、ロスは新しい妻に北極には行かないと約束していたのでやはり辞退した。 3番目の候補はジェイムズ・フィッツジェイムズであり、その若さ故に海軍本部が却下した。 バロウはジョージ・バックを検討したが、バックはあまりに理屈っぽいと考えた。 フランシス・クロージャーも候補だった可能性があったが、生まれが卑しいうえにアイルランド人であり、これが彼にとって不利だった。 それらの結果、バロウの指名先は戸惑いながらも59歳のフランクリンに落ち着くことになった。 遠征隊はHMSエレベスとテラーの2隻の船で構成され、どちらもJ・C・ロスが南極で使ったことがあった。 フィッツジェイムスがエレベスの艦長となり、1841年から1844年の南極遠征でロスと共にテラー号を指揮したクロージャーが、遠征隊の執行士官、かつテラー艦長に指名された。 フランクリンは1845年2月7日に遠征隊長に指名され、5月5日に公式指示書を受け取ったのだ。

フランクリン-3

積載量378トンのエレバスと、同331トンのテラー号は、頑丈に造られており、最新式の装備を備えていた。 エレバス号の蒸気機関はロンドン・グリニッジ鉄道の、テラー号はおそらくロンドン・バーミンガム鉄道の製造だった。これらの機関により船は独力で時速7.4 km(4ノット)で航海できた。 その他の先進技術としては、船首が鉄製の重いビームと板で補強されており、乗組員のためには室内スチーム暖房が付き、スクリューのプロペラや鉄製梯子は損傷防止のために覆いの中に退きこむことを可能とし、船の図書室には1,000冊以上の図書が収められ、3年間は持つ保存食あるいは缶詰食料が積まれていた。 この缶詰は安売りの提供者スティーブン・ゴールドナーが納めており、フランクリン隊が出発するちょうど7週間前の4月1日に注文を受けていた。 ゴールドナーは大急ぎで注文された8,000個の缶詰を作ったが、後の検証では鉛のハンダが「厚く杜撰に施されており、溶けた蝋燭の蝋のように缶の内部表面に漏れていた」ことが分かった。 食材に供するこたができない不良品であった。 乗組員の大半はイギリス人であり、その多くは北イングランド人、少数がアイルランド人とスコットランド人だった。 フランクリンとクロージャーを除けば、北極海に慣れた士官は軍医補1人とアイスマスター2人のみだった。

遠征隊は1845年5月19日朝、イングランドのテムズ川河口グリーンハイスを出港した。士官は24人、乗組員110人、合計134人だった。北スコットランドの沖合オークニー諸島で短期間停泊し、そこからHMSラトラーと輸送船バーレット・ジュニアを伴って、グリーランドに向かった。 グリーンランドの西岸、ディスコ湾のホエールフィッシュ島で、輸送船が運んできた10頭の雄牛を殺して、新鮮な肉を補充した。 物資はエレバス号とテラー号に移され、乗組員たちは故郷に送る最後の手紙を書いた。 この船上で書かれた手紙では、フランクリンが罵倒と酔っぱらいを如何に禁じていたかが書かれていた。 遠征隊が最後に出発する前に、5人の者が任務を解かれ、ラトラー号とパーレット・ジュニア号で国に戻ったので、総勢は129人になった。 捕鯨船ピプリンス・オブ・ウェールズ号のダネット船長と、同じくエンタープライズ号のロバート・マーティン船長が、7月下旬にバフィン湾でランカスター海峡を通るための好条件になるのを待っていたエレバス号とテラー号に出逢っており、ヨーロッパ人が遠征隊を目撃した最後の機会となった。

・・・・・・それから150年間以上にわたり、他の遠征隊、探検家、科学者、果ては好事家たちが、遠征隊に何が起こったか、情報の断片を継ぎ合せようとしてきた。

フランクリン-4

===== 続く =====

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