探検家群像=角幡唯介= 08

角幡唯介、日本のノンフィクション作家・探検家

氷の海

【 北西航路;資料⑥ フランクリン遠征】

放棄されたエレバス号とテラー号の航路については、キングウィリアム島に残されたフィッツジェイムズとクロージャーの書簡の記述が全てである。 いわく「ウェリントン海峡を北緯77度まで北上し、コーンウォリス島西岸に沿いて戻りし後、北緯74度43分28秒西経90度39分15秒ビーチー島にて1846年から1847年を越冬せり。」 「ここ(北緯69度37分42秒西経98度41分)より北北西5リーグの地点にて1846年9月12日より氷に囲まれたるにより、1848年4月22日エレバス号ならびにテラー号を放棄せり。」

遭難遺品

 つまりジョン・フランクリン遠征隊は、コーンウォリス島(Cornwallis Island、前節参照)を北に迂回せんと欲したのか他の意図があったのかは分からないが、コーンウォリス島の東岸から永久流氷の限界に近い北緯77度まで北上した。 しかし何らかの理由で引き返し、コーンウォリス島を西岸から回り込み、ビーチー島で1845年の冬を宿営した。そこで隊員3人が死んで埋葬された。 遠征隊が再び出航したのは、3人目の隊員が死亡した1846年4月30日以降ということになる。 その後南下しプリンスオブウェールズ島(前節参照)を過ぎ=東岸のピール海峡を通ったのか、西岸のマクリントック海峡を通ったのかは記述がない。研究者は例外なくピール海峡と考えている=、キングウイリアム島(前節参照)を西に迂回せんと欲したが、1846年9月12日に島の北西海上で氷に囲まれた。 船が動けないままフランクリンは1847年6月11日に死亡した。 その夏は結局流氷が動かず、もう一年越冬するはめになり、翌1848年4月22日に一行は船を放棄して陸路カナダ本土のバック川方向に向かうこととなった。 この時点で何らかの異常な事象により士官9人と隊員15人が死亡しており、遠征隊は2割近い人員を失っていた。

確かな記録として確認できるのはここまでであり、南に向かった遠征隊の生き残りの足跡は明らかでない。 ただ、イヌイットの目撃証言・遺骨や遺物がキングウィリアム島西岸・南岸・カナダ本土に渡ったアデレード半島に死屍累々と残っており、世界の探検史上例を見ない死の行軍の断片を示している。 遠征隊の最期の地がどこであったかは不明だが、チャントリー湾より南に到達したことを示す証拠は発見されていない。 西洋文明の最も近い前哨からは数百マイルも離れていた。 放棄されたエレバス号とテラー号のその後も明らかでない。 ホールの聞き取りでは、一隻の難破船がアデレード湾に流れ着き、乗組員や猟犬の遺体が見つかったとのイヌイットの証言があるが、後述のとおり後年の調査で物的証拠は発見されていない。

リチャードソン

ジョン・フランクリン隊の捜索

フランクリンから何の便りも無いまま2年間が過ぎ、人々が心配するようになり、フランクリン夫人さらには英国議会の議員や新聞が海軍本部に捜索隊を送るよう促すことになった。 これに応じて海軍本部は1848年春には実施する3方向の捜索計画を立てた。 1つはジョン・リチャードソンとジョン・レイの指揮する陸路からの救援隊であり、マッケンジー川を下り、カナダ北極圏海岸に向かうものだった。 海上からは2つの隊が向かうことになった。 1つはランカスター海峡を抜けてカナダ北極圏多島海に入るものであり、もう1つは太平洋側から向かうものだった。 さらに海軍本部は「ジョン・フランクリン卿の指揮下にある探検船の乗組員を助けることになった、如何なる国の如何なる隊にも」2万ポンド(2014年換算で1,752,100ポンド)を賞金として提供すると発表した。 この3方面の隊が失敗した後も、北極海に対するイギリス国民の興味関心は増加し、「フランクリン隊を発見することは十字軍に匹敵する」ほどまでになった。 ランクリン夫人が失踪した夫を探すのを歌った『フランクリン夫人の嘆き』と題するバラードが人気を博す。

捜索には多くの者が加わった。 1850年、イギリス船11隻とアメリカ船2隻がカナダの北極海に向かった。 その中にはHMSフレッヂアルベーン号とその姉妹艦HMSフェニックス号も入っていた。 幾隻かはビーチー島の東海岸に集まり、1845年から1846年の冬季宿営地の跡と、ジョン・ショー・トーリントン、ジョン・ハートネル、ウィリアム・ブレインの墓を含む、フランクリン遠征隊の遺物を初めて発見した。 この場所でフランクリン遠征隊からの伝言は見つからなかった。 1851年春、複数の船の乗客と乗組員がニューファンドランド島沖で巨大な氷山を視認したが、そこに2隻の船が、1つは直立したまま、1つは転覆しかかって捉えられているのが観測された。 これらの船を近くから検証はできなかった。 これらがエレバス号とテラー号だった可能性があると言われたが、放棄された捕鯨船だった可能性が強いといわれているが・・・・・・。

ベルチャー

 レイやアンダーソンの貴重な遺品の発見にも拘わらず、海軍本部は独自の捜索を計画しなかった。 イギリスは1854年3月31日付で公式に乗組員が公務中に死亡したと判断したと表明した。 フランクリン夫人は政府に新たな捜索を行う資金手当てをさせることができず、私費でフランシス・レオポルド・マクリントックの指揮による遠征隊を発注した。 この遠征船は蒸気駆動スクーナーのフォックス号であり、公募で購入され、1857年7月2日にアバディーンを出港する。

探検隊の出発から14年後の1859年、フランクリン夫人が組織したマクリントック隊は、航路の中間にあるキングウイリアムで探検隊のノートや膨大な遺品、雪原に連なる遺骨を発見し、探検隊が全滅したことや全滅するに至った道のりが明らかになった。 メモによれば艦隊は1845年から46年にかけてデヴォン島南西のビーチー島で越冬し、この際に3人の水夫が結核で死にビーチー島に墓が作られた。 艦隊は南西へ向かったが1846年9月にキングウィリアム島付近の海域で氷に閉じ込められ脱出不可能となった。 翌1847年の夏にフランクリンは死に、船は氷から脱出できないまま1848年を迎えた。

100人ほどになった生存者は1848年の春に船を放棄してそりでカナダ本土を目指した、というところでメモは終わっているが、その後雪原を行進する最中、次々と飢餓や壊血病に倒れたとみられる。 さらに、8,000個も用意していた缶詰は、雑なハンダ付けのために鉛がハンダ部から食料へ溶け出し、隊員は鉛中億で体や精神に異常をきたした末に全滅に至ったと推定されている。 事実、ビーチー島に埋葬されていた水夫の遺体からは高い濃度の鉛が発見されており、1846年はじめの時点で鉛中毒が始まっていたとみられる。 また、近年の調査では最後の時点で人肉食が起こったとする証拠も発見されているのである。

マクルアー

===== 続く =====

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