探検家群像=角幡唯介= 09

角幡唯介、日本のノンフィクション作家・探検家

氷山

【 北西航路;資料⑧ アムンセンの成功 】

海路による北西航路の横断は、結局1906年までなされなかった。 1903年、ノルウェーの探検家ロアール・アムンセンは、探検活動をやめさせようとする債権者から逃げるようにして、47トンの鋼製狩猟船ヨーア号(Gjøa)で大西洋から北西航路へ入った。 3年後、北極諸島を横断してアラスカにたどり着いたアムンセンは、歩いてアラスカ州イーグルの町に入り、故国へ探検成功を伝える電報を打ったのである。

20世紀の初頭において、大西洋側から太平洋側へアメリカの北を回って航海する「北西航路」は、欧亜間の最短航路になりうると考えられていた。 前節まで記述してきたように、16世紀以来ヨーロッパの多くの航海者が挑戦してきたが氷に阻まれ誰も成功せず、19世紀に入ってもイギリスのジョン・フランクリン率いるイギリス海軍の艦隊がカナダ北方で全滅するなど多くの犠牲者を出してきた。 “フランクリン探検隊の失踪と全滅”はアムンセンに大きな印象を与え、北西航路横断に挑みたいという願いが高まっていた。 1903年、アムンセンは、探検活動をやめさせようとする債権者から逃げるようにして、乗員6名とともに47トンのエンジン付き鋼製漁船ヨーア号(Gjøa)で大西洋から北西航路へ入った。

Beaufort_Sea_and_disputed_waters

彼はバフィン湾・ランカスター海峡・ジェイムズロス海峡・レイ海峡と、東から西へ向かう航路を選んだ キングウイリアム島とブーシア半島の間のレイ海峡は新しい氷が多く比較的航行可能で、この選択が成功のもとになった。 ただし水深がわずか1mと非常に浅い部分があり、ヨーア号だから航行できたものの、それより大型になる商船の通過は不可能な航路であった。

キングウィリアム島近くで2回越冬したアムンゼンはイヌイットから、犬ぞりの使い方や獣皮の着方など寒帯で生き残る術を学び、これが後の南極などの探検に生きる。 そして、1905年夏に越冬地を発してビクトリア島の南を航海し1909年8月17日にカナダ北極諸島を抜けボフォート海へ出ることに成功したが、アラスカ沖で流氷に閉ざされ3度目の冬を越すことになる。 彼は氷の上を800km歩いてアラスカ州イーグルに向かい、北西航路横断の電報を打って船に帰った。 次の夏、氷を脱出したヨーア号はベーリング海峡を通過し、アラスカ太平洋岸のノームに入港した。 こうしてアムンセンは史上はじめて北西航路の横断航海に成功したのである。

=カナダとグリーランドに住むエスキモー民族は「エスキモー」という呼び名を拒否しているため、公に「エスキモー」と呼ばれることはない。 「イヌイット」はカナダのエスキモーのことで、アラスカでは「エスキモー」が使用されることがあるが公式な民族名はイヌピアットとユピックである。 アラスカでは広義のイヌイットに含まれるイヌピアットを含め「イヌイット」と呼ばれることを拒否している。 ユピックをイヌイットと呼ぶのは明確な誤りである=

アムンゼン

アムンゼンの成功に、英国王立地学会は、1907年に 北西航路横断と磁北極地域の探険の業績に対し、アムンセンに金メダルを授与した。 そして、北西航路横断航海に成功したアムンセンは、次に北極点到達を目指した。探検家から政治家に転身したフリチョフ・ナンセンからフラム号を譲り受け、着々と準備を進めた。 しかし、北極点探検の準備中、1909年4月6日にロバート・ピアリーが北極点に到達したことを知り、目標をひそかに南極点に変更した。 しかし、出資者や隊員にはこれを告げず、秘密裏のままに準備を進め、1910年8月に「北極探検のため」ノルウェーを出航した。

1911年1月14日、アムンセン隊はロス棚氷の北東部にあるクジラ湾から南極大陸に上陸し、そこにフラムハイム基地を建設。越冬と探検の準備を始めた。 英国が総力を挙げて支援したスコットはすでに1月2日に西側のロス島に上陸し基地を建設していた。 アムンセン、スコット両隊は半年以上をかけてデポの作成や周囲の探索を行い、来るべき探検の準備を行った。 南極点に向かいアムンセンの取るべきコースは、距離は1500kmでスコットよりも100kmほど短く、また基地周辺には食料となるアザラシが大量に生息していたものの、スコット隊のコースのほとんどが以前に探索されたものであるのに対し、アムンセン隊のコースはほとんど未探索のものであり、未知の土地を進まねばならない危険が存在していた。 が、1911年10月20日にアムンセンは4人の選抜隊とともにフラムハイムを出発し、4台の犬ぞりを1台あたり13頭、計52頭に引かせて南極横断を開始する。 途中好天にも恵まれてアムンセン隊は順調に距離を伸ばし、1911年12月14日、人類初の南極点到達を果たした。 帰路も順調で、1912年1月25日に一人の犠牲者も出すことなくフラムハイムへと帰還した。 しかし、1月17日に南極点に立ったスコット以下四名全員が遭難、食料を置いたデポまであと20kmのところで不帰の人となる。

北極海

=当ブログ参照; ロバート・ファルコン・スコット~ 南極点到達レースの敗者 ~;2013/08/19、フリチョフ・ナンセン博士~ 北極探検 二つの物語 ~;2013/12/11=

さて、本文は“北西航路”開拓に挑んだ探検家・冒険家の史跡を追う角幡唯介しの足跡をおっている。 彼の行動を理解するためへの長文な資料を書き綴ってきたのだが、次回より 彼に寄り添って書き進めよう・・・・・・

ヨーク号

===== 続く =====

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