探検家群像=角幡唯介= 15

角幡唯介、日本のノンフィクション作家・探検家

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 (ナショナルジオグラフィック日本版より転載、イラスト構成は筆者)

== グレートフィッシュ川――クロージャーの決断 前節 ==

今から181年前の1830年5月30日、ジェームズ・クラーク(J・C)・ロスがキングウイリアム島のビクトリーポイントに到達した時、彼は南西の方角に見えた、海に長く突き出た平坦な陸地に、著名な探検家に敬意を表してフランクリン岬と名前をつけた。そしてその手前のやや盛り上がった岬を、フランクリンの妻の名前をとってジェーン岬と呼んだ。

おそらくこの時、J・C・ロスに他意はなかったはずだ。探検家として初めてキングウイリアム島にやってきて、北西航路の謎の解決につながるのかもしれない見知らぬ海と陸地が南に続いているのを彼は見た。そしてそこから望んだ文明から最も隔てた地に、北西航路の発見に今も執念を燃やす男の名前をつけることにした。ついでに仲睦まじそうに並ぶもうひとつの岬に、その男が愛する妻の名前を与えた。たぶんそんなところだったのだろう。『第2次北西航路探検記』の中で彼は次のように書いている。

「南西のほうに見えた地点に私はフランクリン岬という名前を与えた。その名前がいくつかの地名に使われているとしても、そのことによって与えられる名誉はその探検家が真に値する価値からはほど遠い」

J・C・ロスが気をきかせてつけたこの地名は、後になってみるとひどく皮肉なものとなってしまった。というのも、それから16年後に、彼が地名にして栄誉を与えたジョン・フランクリンが、まさにその場所の近くまで船でやってきて、悲劇的な死を遂げてしまったからだ。さらに彼が死んだことを妻に知らせる物証が見つかったのも、そのビクトリーポイントだったのだ。

1845年にイギリスを出発したジョン・フランクリンを隊長とする探検隊は、バフィン湾で捕鯨船の船長と最後の会見をしてからというもの、ようとして行方が分からなくなってしまった。ジョン・ロスがランカスター海峡で幻のクロッカー山を誤認して以来、北西航路の探検は、エドワード・パリーやJ・C・ロスなど何人もの極地探検家の手によりじわじわと解明が進められてきた。島や半島、入り江、海峡が複雑に入り組んだ極北カナダの群島部の地理的な空白部は、彼らが帰ってくるたびに少しずつ狭まり、ようやくフランクリンの手によって北西航路は発見されるはずだった。

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 フランクリンが死んでいたことが発覚したのは、彼が出発してから14年が経った1859年のことだった。夫フランクリンの行方を案じた妻ジェーンが派遣したある探検隊が、ビクトリーポイントで、余白にびっしりと文字が書き込まれた1枚の汚れた紙切れを発見した。その紙はフランクリン隊の男たちが残したメモ書きだった。そこには彼らがこれまでたどって来たルートや隊長のフランクリンがすでに死んだこと、そして彼らがこれから目指そうとしていた目的地が書き込まれていた。

1848年4月25日。英国軍艦テラー、エレバス両号は、1846年9月12日以来氷に包囲されてしまったため、4月22日にここから5リーグ北北西に離れたところで放棄するに至った。105人からなる士官と乗組員は、F・R・H・クロージャー大佐の指揮のもと、ここ北緯69度37分42秒、西経98度41分の地に上陸した。ジョン・フランクリン卿は1847年6月11日に亡くなった。今日までの探検隊の死者数は士官が9人、乗組員が15人に達している。

 J・フィッツジェームズ大佐 エレバス号

 F・R・M・クロージャー大佐 筆頭士官

 明日26日、バックのフィッシュ川を目指して出発する

・・・・・・・・と・・・・・・・・

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  メモが書かれた時、フランクリン隊のエレバス、テラーの両号はすでに分厚い氷に囲まれて動かすことができなくなっていた。 隊員の間では壊血病か重度の鉛中毒が蔓延し、死者が続出していた。彼らは船を放棄する決断を下し、生き残りをかけて、北西航路の最後の空白部であるキングウイリアム島に上陸したのだ。

上陸した男たちは紙の端に、小さな文字で「バックのフィッシュ川」を目指すと書き残していた。「バックのフィッシュ川」とは、北西航路の探検史が生み出した英雄のひとりジョージ・バックが1833年から35年に探検した、当時グレートフィッシュ川と呼ばれていた川のことを指す=現在ではジョージ・バックにちなんだバック川という、つまらない名前で呼ばれている=。

105人となったフランクリン隊 ≪詳細は下記にて≫ の生き残りは、亡きフランクリン隊長に代わり指揮をとる副官のフランシス・クロージャーに率いられて、グレートフィッシュ川を目指すことにしたのだ。 ソリの上に重くて頑丈なボートを乗せ、ティーカップやカーテンロッドなどといった無駄な装備をたくさん詰め込み、たぶん痩せこけた病身に鞭を打ち、重々しい足取りでソリを引きながら、はるか南に向けて歩き出したのだ。

*                *

 それにしてもフランクリン隊を率いたクロージャーは、なぜ最後にグレートフィッシュ川を目指すことにしたのだろうか・・・・・・・・・・。

フランクリン隊については、今でもまだ解決に至っていない謎が多く残されている。 キングウイリアム島に上陸するまでになぜ24人もの人間が死んだのか、隊長であるフランクリンの墓はどこにあるのか、クロージャー指揮下の105人はまとまって南を目指したのか、それともバラバラになったのか、2隻の船エレバス号とテラー号はどこで沈んだのか、船に戻った隊員を見たというイヌイットの証言は本当なのか、最後の生き残りはいったいどこにたどり着いたのか。

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 これらフランクリン隊をめぐる謎の中でも、クロージャーが下したグレートフィッシュ川を目指すという選択は、当時の探検界のエスタブリッシュメントたちの首を大いにひねらせることになった。

なぜクロージャーはグレートフィッシュ川のような不毛で助かる見込みのうすそうな場所に向かったのか。

グレートフィッシュ川を探検したジョージ・バックによると、この川は曲がりくねった荒々しい流れが530マイルにもわたって続き、五つの巨大な湖と83カ所もの滝や急流が現れる厄介な川で、その両側には樹木が1本も生えていない不毛地帯がどこまでも続くというではないか。クロージャーがそんなわけのわからない場所ではなく、もう少し生存の可能性が見込める場所を選んでいれば、105人のうち何人かは助かったのではないかと、他の極地探検家は思ったのだ。

北極圏ー5

===== 続く =====

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