海賊/マーティン・フロビッシャー その一/3

= 北西航路への挑戦、山師である海賊たち 

航海

私掠船船長(海賊) マーティン・フロビッシャー

フロビッシャーはヨークシャー西部のノーマントン(Normanton)にあった14世紀以来の旧家で、父バーナード・フロビッシャーとナイトの家系出身の母のもとに生まれた。 父が早くに亡くなったため、母はロンドンに住む弟のサー・ジョン・ヨークのもとに息子を送り教育させた。 フロビッシャーは学問をほとんどしなかったが、勇敢さを叔父ヨークからも認められていた。 1550年、ヨークはフロビッシャーを船乗りとして育てることとし、1553年にはヨークが出資する赤道ギニアへの航海にフロビッシャーを送り出し、フロビッシャーは怏々しく生還する。 そして、翌1554年にもギニアに交易の航海に出たが、彼はここでポルトガル人に捕まり数カ月間囚えられ、帰国したのちの1559年には結婚している。

フロビッシャーはギニアからの帰国後、私掠船(しりゃくせん=戦争状態にある一国の政府から、その敵国の船を攻撃しその船や積み荷を奪う許可、私掠免許を得た個人の船をいう。私掠免許を「海賊免許」と呼称する場合もあるが、厳密には私掠船は海賊ではない=。)の世界に身を投じた。 やがて数年後にはイングランドでも最も大胆で不届きな海賊の一人として知られるようになる。 因みに、1564年の海事裁判所の記録では、「彼の名はスペインのフェリッペ王にも知られており、ジョン・ホーキンスと同じくらい憎まれている」とある。 やがて彼はイングランド女王・エリザベス1世の宮廷に接近し、女王のための任務につくようになる。 1571年にはアイリッシュ海で合法的な警備活動を任され、フランス船やポルトガル船を襲う一方、女王が進めていたアイルランド征服の軍事活動を支援することになる。

海賊頭目

最初の北西航路航海

フロビッシャーは1560年頃から北西航路の探検航海を請け負おうという決意をもっており、友人らの前に地図を広げてアジアにある富とそこに行く最短航路を説いていた。 サー・ハンフリー・ギルバートの航海記録では北アメリカ大陸の北端を回って中国(キャセイ)やインドに向かう最短距離の航路があるはずだとされており、フロビッシャーも大きく影響を受けている。 このため、フロビッシャーは1575年頃からロンドンの有力者たちを回って探検航海の後援を行ってくれるよう働きかけている。

フロビッシャーは、イングランド商人の出資を集めた勅許会社=特許会社とも呼ばれ、主にイギリス・オランダなどの西欧諸国で国王・女王の勅許または国家行政の特別許可状をもらい設立された貿易を主とする会社で、特に植民地獲得への貿易、植民地の経済支配の目的で作られ、そうした経済活動はリスクが大きかったので、会社設立の見返りとして経済貿易に関する独占権を与えられたもの。 イギリス東インド会社、オランダ東インド会社、などがある=で、ロシアの北を回って中国に向かう北東航路へ多数の探検家を送り出していたモスクワ会社を説得し、その免許を受けることに成功した。 彼はモスクワ会社のマイケル・ロックの支援を受けて、3隻のバークによる船団を組むための資金を集めた。

船舶

この3隻は、20トンから25トンの大きさの「ガブリエル」号(乗組員18人)と「マイケル」号(乗組員17人)、および10トンほどのピンネース1隻(乗組員4人)であり、総数39人という規模であった。 フロビッシャー一行はロンドン東部にあるテムズ川の河港ブラックウォール(Blackwall)で錨を揚げ、エリザベス1世直々の見送りをグリニッジで受け、1576年6月7日に出帆し、シュドランド諸島を経て西方の海に向かった。 嵐の中でピンネースは失われ、7月11日にグリーランド付近でガブリエル号とマイケル号もはぐれてしまった。 氷と嵐に恐れをなしたマイケル号は結局戻り、ロンドンに9月初頭に帰港している。 ガブリエル号はそのまま航海を進め、7月20日にレゾリューション島を発見し「クイーン・エリザベスズ・フォアランド(Queen Elizabeth’s Foreland)」と名付け上陸した。

数日後、ガブリエル号はパフィン島のフロビツシャー湾湾口に到達したが、氷と風によりこれ以上北への航海ができないと感じたフロビッシャーは西のフロビッシャー湾内へと船を進めることにした。 彼はこれを海峡だと信じ自らの名を冠して「フロビッシャー海峡」と名付け、その反対側の海へ出ようと考えていた=これが海峡でなく湾だとはっきりしたのは約300年後、イギリスの北極探検家チャールズ・フランシス・ホールによる1861年の航海の時である=。 しかし湾は行き止まりとなり、8月18日に一行はバフィン島に上陸する。 ここで彼らはイヌイットらと遭遇し、フロビッシャーはその内の一人を案内人として周囲を探索した。 案内人を海岸に送り返す際に部下5人をボートに乗せて送り出した。 部下には現地人にあまり接近しないよう指示していたが、彼らは指示を破り、おそらくイヌイットに捕まったとみられる。

バフィン島

 数日間の捜索で部下を見つけられなかったフロビッシャーは、案内人であったイヌイットを捕虜として行方不明になった部下を返さない限り解放しないとイヌイットたちを脅した。 しかし、結局部下は戻らなかった=イヌイットの伝承説話では、行方不明になった部下たちはイヌイットの一員となっており、数年間暮らしたが、手製のボートを作ってバフィン島を出ようとして死んでしまったという=。 バフィン島を出たフロビッシャーの乗るガブリエル号は、10月9日にロンドンに帰港した。 マイケル号の帰港後、ガブリエル号もフロビッシャーも行方不明になったとされており、彼らの帰港はロンドンを熱狂させた。

彼らが急いで持ち帰った物の中には「黒い石のかけら」があった。 金属の分析家たちはこの鉱石に興味を示さなかったが、フロビッシャーの相談を受けた4人の専門家のうちの1人がこれには“金”が含まれているとおだてて喜ばせた。 フロビッシャーの支援者であり、山師でもあるマイケル・ロックやモスクワ会社は、この相談結果を更なる航海の投資集めに利用した。

ヨークシャー

===== 続く =====

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