天正遣欧使節を仕組んだ男=03=

❢❢❢  イエズス会宣教師ヴァリニャーノ  ❢❢❢

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◆◇◆ 一大プロジェクト 「天正遣欧使節」の企画 ◆◇◆

1582年2月20日(天正10年1月28日)に九州を出立し、欧州をめぐり、その3年後の90年7月21日に長崎港に帰着した「天正遣欧使節」。誰が何の目的でこの一大プロジェクトを企画し、誰が派遣されたのか。順を追って見ていくことにしよう。

  ☛ ☞  “立案者”
1579年に初めて来日した、イエズス会所属のイタリア人巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano 1539―1606年)。イエズス会の初代総長はスペイン人イグナチオ・ロヨラ、創設メンバー6名のうち、4名はフランシスコ・ザビエルらスペイン人、あとはポルトガル人2名であったことから、同会ではスペイン・ポルトガル出身者が二大勢力を誇っていた。

この二大勢力出身者がイエズス会の重要ポストを独占することによって生じる弊害をおそれ、同会は東インド管区(東洋一帯を担当)を回る巡察師という重要職に、イタリア人ヴァリニャーノを抜擢したとされている。ヴァリニャーノは期待にみごとにこたえ、布教をいかに効率的に進めるか、様々な策を練った。

彼はなかなかの現実主義者でもあり、物事の本質を見抜く才に長けていたようで、日本でのキリスト教布教について明確なビジョン(後述)を持っており、それが遣欧使節の実現につながった。しかし、賢明なヴァリニャーノも、この計画が、後に大きな誤算に見舞われることを予知するすべは持ち合わせていなかった。

  ☛ ☞  “使節を派遣したとされている キリシタン大名”
大友宗麟(おおとも・そうりん)大村純忠(おおむら・すみただ)有馬晴信(ありま・はるのぶ)九州北部に領地を有するこれらの大名(下コラム参照)が、スペイン国王フェリペ二世、そして教皇グレゴリウス13世に敬意を表するために4少年を派遣した――というのが表向きながら、実際には、彼らはほとんど関わっていなかったのではないかとする、後世の研究者たちの見解もある。

事実、大友宗麟にせよ、大村純忠にせよ、それぞれ近隣大名との戦いで疲弊し、財政的に、使節をヨーロッパへ送るなどの余裕はなかったという。 有馬晴信にいたっては、攻め滅ぼされる寸前だったものを、ヴァリニャーノのはからいで成ったポルトガルからの大規模な物質援助によって救われ、その恩に報いるために洗礼を受けたという有様。

これらの三大名が、このタイミングで積極的に使節を送ったと推測するのは、不自然といえそうだ。 かといって、これらの三大名が、ヴァリニャーノの計画を事前に知らされていなかったと断定するに足るだけの証拠は集められていない。 逆に事前に告げられていたとしても、それに反対する理由はまったくなかったと考えられる。 いずれにせよ、受身的な姿勢だったとみるのが妥当のようだ。

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❢❢❢ 天正遣欧使節とかかわった キリシタン大名たち ❢❢❢

イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは戦国時代の日本をよく理解し、まず各地の戦国大名たちに領内での布教の許可を求め、さらに布教を円滑に進めるために大名自身に対する布教も行った。後から来日した宣教師たちも同様に各地の大名に謁見し、領内布教の許可や大名自身への布教を行っている。

その際、大名たちの歓心を得るために、布教の見返りに南蛮貿易や武器・弾薬の援助などを提示した者もおり、大名側もこうした宣教師から得られる利益をより多く得ようと、入信して歓心を買った者もいた。入信した大名の領地では、特に顕著にキリスト教が広がることになった。その後、キリスト教の教義やキリシタン大名の人徳や活躍ぶり(特に高山右近)に感化され、自ら入信する大名が現れ、南蛮貿易に関係のない内陸部などでもキリシタン大名は増えていった。また、畠山高政六角義賢のように没落したのち改宗した大名もいた。

しかし、キリスト教に入信した大名とその配下達の中には、領地内の寺・神社を破壊したり焼き払ったり 僧に冒涜を加えた者もあった。これらの破壊行為は宣教師自らが異教撲滅のため、キリシタン大名に教唆することもあった。また異教撲滅こそが神への奉仕であり、その見返りに神が合戦で勝利をもたらしてくれるという、大名自身の願望もその理由に含まれていただろうと考えられる。

一方で、仏教や新道を奉ずる大名の中にも、僧たちの意見を聞き入れ外来の宗教であるキリスト教を邪教として弾圧する者もおり、カトリック教徒と日本の旧来の宗教の信者達との間に憎悪と対立を深めていくことになった。また、豊臣秀吉により天下が統一されると、バテレン追放令(伴天連追放令)が出され、キリシタン大名に対する政治的な圧力が強まり、多くの大名が改易、もしくは仏教か神道への改宗を余儀なくされ、キリスト教の禁教と迫害の時代に入っていった。

主なキリシタン大名には高山右近大友義鎮大村純忠有馬晴信小西行長黒田孝高蒲生氏郷筒井定次などがいる。キリシタン大名の一人、大友宗麟大村純忠有馬晴信とともに少年使節をローマに送っている。

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 ☛ ☞  “使節の構成メンバ”
= 四名の使節については前節で記述したが、詳細については後述する=
・ 伊東マンショ(正使)
・ 千々石(ちぢわ)ミゲル(正使)
・ 原マルチノ(副使)
・ 中浦ジュリアン(副使)

・ 巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(イエズス会修道士、イタリア人)
・ ディオゴ・デ・メスキータ師(イエズス会修道士、ポルトガル人)
・ ジョルジュ・ド・ロヨラ修道士(日本人)
・ フアン・サンチェス修道士(スペイン人)
・ コンスタンチーノ・ドラード(随員、日本人の少年)
・ アグスチーノ(随員、日本人の少年)

このうち、ヴァリニャーノは往路の途中、インドのゴアにて別の使命を与えられたため、断腸の思いで使節から離脱。 使節はメスキータに引率され、旅を続けることになる。なお、ヨーロッパではメスキータが通訳となり、四少年はラテン語でメスキータと意思疎通をはかり、原則として人々と直接話すことを禁じられた。 これは、ヨーロッパの悪い部分は一切見聞きさせてはならないというヴァリニャーノの強い指示によるものだった。
  ☛ ☞  “どのように How”
天正遣欧使節が帰国してから23年後に、東北の有力大名、伊達政宗(だて・まさむね 1567―1636)が送った「慶長遣欧使節」が、まず太平洋を横断してメキシコを経由し、さらに大西洋を渡るルートをとったのに対し、天正遣欧使節は、インドを経由、喜望峰沖をまわってアフリカ大陸西岸に沿って北上、ヨーロッパに至るルートをとった。

船舶の建造技術、航行技術の向上も考慮に入れなければならないが、慶長遣欧使節は約一年でヨーロッパに到達したのに、天正遣欧使節は2年半もかかっているのは、このルートの違いも影響している。

 ☛ ☞  “どこで Where”
一行はまずリスボンに上陸。リスボンから約20キロ西にあるシントラの郊外にある、ペニャ・ロンガのイエズス会修道院に滞在した。 この修道院だった建物は、現在は「ペニャ・ロンガ・ホテル&ゴルフ・リゾート」の敷地内に今も面影をとどめている。 また、リスボンでは、サン・ロケ教会付きの修道院に滞在したとされている。

この後、当時の超大国スペインの首都マドリードを訪問、さらには海路でトスカーナ公国に上陸し、その隣のローマ教皇領に入り、ローマに到達したのだった。 復路は、現イタリア国内で拮抗していた有力諸侯のもとを歴訪し、再び海路でスペインに戻ってからリスボンへと帰着した。

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===== 続く =====

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