天正遣欧使節を仕組んだ男=05=

❢❢❢  イエズス会宣教師ヴァリニャーノ  ❢❢❢

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◆◇◆ 神学校で遣欧使節に選ばれた少年たち ◆◇◆

有馬晴信の領内には、10歳前後の良家の子弟たちを教える神学校「セミナリオ」があった。 使節のメンバーに選ばれたのは、いずれも、成績優秀、容姿端麗、長旅に耐えられると思われる丈夫な少年たちだった。 四人の中ではもっとも「血筋」のよい伊東マンショだが、父とは死別し、母には去られ、孤児同然だったといい、使節に加わることを反対する近親者はいなかったという。 また、他の3名についても、セミナリオ=神学校、前記参照=に入学した時点で、修道士となることを目指してキリスト教を学ぶことと親元を離れて暮らすことは当然の約束事だった。

とはいえ、13歳前後のあどけない少年たちを、命の保障もない旅に連れ出すにあたり、ヴァリニャーノも心を痛めていないわけではなかった。 その父母たちに責任をもって彼らを無事、帰国させると誓ったと伝えられている。 選ばれた四名の少年使節は異国に至るまでの困難な旅路、異国の生活、帰路の苦難、そして 故国で待ち受けていた“バテレン追放令”による弾圧と迫害。 選ばれたことで過酷な運命に翻弄されて行くのだが 彼らの史跡を記述しておこう。

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 ☛ ☞  “伊東 マンショ”

永禄12年(1569年)頃、日向国都於郡(今の西都市)にて、伊東祐青と母である伊東義祐の娘の間に生まれた。 伊東氏島津氏の攻撃を受け、伊東氏の支城の綾城が落城した際、当時8歳だったマンショ(本名、祐益)は家臣の田中國廣に背負われ豊後国に落ち延びる。同地でキリスト教と出会い、その縁で司祭を志して有馬のセミナリヨに入った。

そのころ、巡察師として日本を訪れたアレクサンドロ・ヴァリニャーンノは、キリシタン大名・大村純忠と知り合い、財政難に陥っていた日本の布教事業の立て直しと、次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考えた。そこでセミナリヨで学んでいたマンショを含む4人の少年たちに白羽の矢が立てられ、マンショは大友宗麟の名代として選ばれた。 これはマンショが宗麟の姪(一条房基子女)の夫である伊東義益の妹の子という遠縁の関係にあったためで、本来は義益の子で宗麟と血縁関係にある伊東祐勝が派遣される予定であったが、当時祐勝は信長の安土にいて出発に間にあわず、マンショが代役となったという。

なお、「大友宗麟の名代として選ばれた」と一般に知られているが、ローマ教皇などに宛てられた宗麟の書状の花押が、古い時代(1564年~1572年頃)に使用されていたものであったり、署名が当時、宗麟が洗礼名(フランシスコ)を漢音で表した「普蘭師司怙」や、それを略した「府蘭」を用いていたのに対し、他の書状には見られない「不龍獅子虎」という署名を用いており、彼らが携帯していた大友宗麟の書状は偽作である可能性が高く、実際には宗麟は少年団派遣を関知しておらず、有馬氏・大村市・ヴァリニャーノが主導となって行ったものであり、「大友宗麟の名代」として彼を任命したのは、宗麟本人では無い可能性が高い事が論文などで指摘されている。

☛ ☞  “千々石 ミゲル”

肥前有馬氏当主有馬晴純の三男であり、肥前国釜蓋城城主であった千々石直員の子として生まれる。 永禄12年(1569年)頃である。 父は肥前有馬氏の分家を開き、千々石氏の名を用いていた。 肥前有馬氏龍造寺氏の合戦で父が死に、1577年に窯藍城が落城すると乳母に抱かれ、戦火を免れたと伝えられている。その後は有馬晴純の次男として大村氏を継承していた伯父の大村純忠の元に身を寄せていたが、1580年にポルトガル船司令官ドン・ミゲル・ダ・ガマを代父として洗礼を受け、千々石ミゲルの洗礼名を名乗る。 これを契機にして同年、有馬のセミナリヨで神学教育を受け始める。
ヴァリニャーノは原マルティノ、伊藤マンショ、中浦ジュリアン、そして大村純忠の甥でもある千々石ミゲルをセミナリトから選び、正使として共にヨーロッパへと渡った。 彼ら四名の少年使節は、東洋からの信徒として教皇グレゴリウス13と謁見し、フェリペ2世ら世俗当主からの歓迎を受けながら見聞を広めて行く。

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☛ ☞  “中浦 ジュリアン”

ローマに残された資料によると中浦ジュリアンの父は肥前国中浦の領主中浦甚五郎とされる。 永禄11年(1568年)頃に生誕。 ジュリアンは司祭を志して有馬のセミナリヨに学んでいたが、当時のセミナリヨは信仰堅固である程度の家柄の子弟しか入学させなかったので、それなりの身分の家の出身であったと考えられる。 そこでセミナリヨで学んでいたマルティノを含む4人の少年たちに白羽の矢が当てられ、ジュリアンは副使となった。

ローマへ向かった使節たちはローマ教皇・グレゴリウス13と謁見したが、ジュリアンだけは高熱のために公式の謁見式には臨めなかった。しかし「教皇様に会えば熱もたちどころに治る」と教皇への目通りを切望するジュリアンの願いを聞いたある貴人の計らいで、ジュリアンのみが教皇と非公式の面会を果たしている。なお、トスカーナ大公国の舞踏会の時は、初めての出来事であった余りにジュリアンは終始緊張しており、いざ自分が踊る番になった時に思わず誘った相手が老婦人だったというエピソードも残る。

☛ ☞  “原 マルティノ”

ローマに残された資料によると肥前国(現在の東彼杵郡波佐見町)出身といわれ、大村領の名士・原中務の子。 誕生は永禄12年(1569年)頃。 両親共にキリスト教徒であり、中原ジュリアン同様に司祭を志して、有馬のセミナリヨに入り神学を学んでいた。 天正遣欧使節派遣に当たり、マルティノは副使となった。

帰国後のことだが、マルティノは当時の司祭の必須教養であったラテン語にすぐれ、語学の才能があった。彼は宣教活動のかたわら、洋書の翻訳と出版活動にも携わり、信心書『イミタチオ・クリスティ』(Imitatio Christi, 『キリストにならう』)の日本語訳「こんてんつすむんぢ」などを出版している。 渉外術にすぐれ、小西行長加藤清正とも折衝にあたり、当時の日本人司祭の中ではもっとも知られた存在であった。

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 ===== 続く =====

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