天正遣欧使節を仕組んだ男=06=

❢❢❢  イエズス会宣教師ヴァリニャーノ  ❢❢❢

11-25-1

◆◇◆ 苛酷な旅路でつちかわれた信仰心 ◆◇◆

さて、抜擢された4少年の胸のうちはいかばかりだったろうか。 一行について書き記した『遣欧使節対話録』『使節行記』などが存在するが、どれにも、少年たちの気持ちは具体的には綴られていないという。 しかし、ひどい船酔いに苦しみ、暴風雨に見舞われて死と隣り合わせの恐ろしい思いをしたり、逆に灼熱の太陽のもと、無風状態で飢えと乾きに苦しめられたりと、往路も復路も、まさに命を賭けた旅だっただけに、彼らは何よりも心の支えを欲したに違いない。 そして、その支えとなったのは紛れもなく「デウス様=イエス・キリスト」であり、彼らが信仰心を日々篤くしたことは想像にかたくない。

少年らを敬虔なカトリック教徒にしたのは、実はこの苛酷な船旅だったのではないかとさえ思えてしまうが、旅のハイライトは、やはり教皇との謁見だったといえる。 ヴァリニャーノはこの実現のために八方手を尽くす。

しかし、 ただひとつ問題があった。

使節を急遽構成しなければならなかったヴァリニャーノは、4少年の身分がそこまで高くないことについて、内心、非常な恐れを抱いていた。 三大名の「名代」という表向きはさておき、実際には大名らの子弟でもない少年たちを、あたかも、高貴な身分であるかのように見せかけて教皇のもとまで連れていくことに、良心のとがめを感じていたようだ。

11-25-2

 ところが、使節が歓待を固辞すればするほど、それは謙虚さ、慎み深さととられ、使節一行への評価は益々高まっていった。 実際、教皇に謁見を許されるころには、一国の「王子」級の扱いを受けるまでになっていたのだった。 後に、イエズス会のライバル修道士会である、フランシスコ会に、4少年の身分について暴露され、批判を受けることになるのだが、使節一行は各地で熱狂的な歓迎を受け、ヴァリニャーノの思惑以上の成果を挙げることとなった。 これもヴァリニャーノの誤算のひとつといえるが、後に一行を襲うことになる、最大の誤算にくらべれば、取るに足らないものだったというべきだろう。

11-20-1

 ☛ ☞  “フランシスコ会”

フランシスコ会は、13世紀のイタリア・アッジンのフランチェスコによってはじめられたカトリック教会の修道会の総称であり、広義には第一会(男子修道会)、第二会(女子修道会)、第三会(在俗会)を含み、現在、その活動は全世界にわたっている。
狭義には男子修道会、すなわち男子修道士による托鉢修道会である第一会に相当する3つの会のことを指し、特にそのなかの主流派である改革派フランシスコ会のみを指すこともある。 この3つの会はいずれも「小さき兄弟会」Ordo Fratrum Minorum (OFM) の名を冠している。 また、英国教会系の聖公会でもフランシスコ会が組織されている。

フランシスコ会の基本理念は、貧しいイエス・キリストの生涯を範として、その福音使徒と同様忠実に生き、ローマ教皇に対してはあくまでも従順をつらぬき、人びとに「神の国」と改悛(悔い改め)を説くことにあった。 かれらは粗衣に裸足で宣教しながら各地をめぐり、とくに会として個人として一切の所有権を放棄し、貧しいなかで手仕事により生計を立て、不足する部分については他者の喜捨にたよった。

フランシスコ会は、同時代に設立されたドミニコ会とともに、居住する家屋も食物ももたず、人びとの施しにたよったところから「托鉢修道会」ないし「乞食僧団」とよばれ、どの協会管区にも属さず、ただローマ教皇にのみ属した。 フランシスコ会は、清貧と禁欲の生活を理想としており、その戒律はベネディクト会のもの(服従、清貧、童貞)と大きな点で相違はなかったが、ただし、これを文字通りに、また、徹底的に実行した点で従来のベネディクト派の修道会とは異なる性格を有している。

11-25-4

1221年につくられたフランシスコ会の会則は、以下のような内容である。

われらの主イエス・キリストの福音を守り、服従のうちに生き自分の物な何も持たず、常に貞節のうちにあらんことを。修道士は頭巾付き上着1枚だけ持ち、履物は必要な者だけに許される。衣服は着古したもので、袋地か、ぼろでつぎはぎさるべきこと。高価な衣装を着、美味な飲食物を食べている人を見ても軽蔑したり裁いたりしてはならず、むしろ自分自身を裁き軽蔑せよ。直接にせよ間接にせよ金銭を受け取ってはならず、何物も所有せず、清貧と謙譲のうちに主に仕え、喜捨を請うことを恥じず、清貧を友とせよ。

フランシスコ会の成立した13世紀は、イベリア半島ではレコンキスタ、中東・地中海地域では十字軍のさなかにあったが、ユーラシア大陸ではモンゴル帝国が広大な版図を築いた世紀でもあった。 ローマ・カトリック教会は、イスラーム勢力を挟撃するためにもモンゴルと和親を結ぼうとして、プラノ・カルピニウィリアム・ルブルックジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノジョヴァンニ・デ・マリニョーリを相次いでモンゴルに派遣したが、かれらはいずれもフランシスコ会の会員であった。

特にモンテコルヴィーノは約30年間中国(元朝)に滞在し、大都(いまの北京)に教会を営み、『新約聖書』のモンゴル語訳訳や中国語訳を著述するなど、単に外交使節としてではなく宗教者としての活動が顕著であった。

日本においては、イラストのごとく、16世紀のキリスト教伝来以降、フランシスコ会はすでに日本人の修道者会員・在世会員を獲得していた。 17世紀なかばまで60名あまりが伝道に従事したが、秀吉ついで徳川・江戸幕府の禁教政策の下、そのほぼ半数が殉教した。 開国後の1862年(文久2年)、これらの殉教者の一部がピウス9世によって列聖されている。

11-25-5

===== 続く =====

前節へ移行 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/11/24/

後節へ移動 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/11/26/

※ 本文下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

                         *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;歴史小説】 ameblo.jp/thubokou/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中