天正遣欧使節を仕組んだ男=07=

❢❢❢  イエズス会宣教師ヴァリニャーノ  ❢❢❢

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◆◇◆ 教皇に抱擁された少年たち ◆◇◆

春まだ浅い、1585年3月23日。いよいよ教皇グレゴリウス13世との謁見の日が訪れた。高熱が続き儀式に参加することは無理と判断された中浦ジュリアンを除く三使節は、教皇から遣わされた馬にまたがり、日本からはるばる持参した着物を着用してバチカン宮殿へと向かった。沿道は、その珍しい日本人を見ようとするローマっ子でうめつくされ、祝砲が鳴り響き、大変な騒ぎだったと記録されている。

バチカンの「帝王の間」に通された使節団はついに、83歳という高齢のグレゴリウス13世との謁見を果たす。教皇は、地球の裏側からやってきた、15、16歳という東洋人3人を抱擁し、涙を流したとされている。「帝王の間」に居並ぶ枢機卿、諸侯たちも涙を禁じえなかったといい、ヴァリニャーノの打算的な目論見などをはるかに越えた、歴史的な出来事がここに実現したのだった。

しかし、思わぬことが起こった。グレゴリウス13世が、わずか二週間ほどの後の4月10日、急逝し、使節たちは大いなる悲しみに打ちのめされる。それでも幸いなことに、新教皇シクストゥス5世も一行には好意的であった。 5月1日の戴冠式戴は4人とも招待され、その華麗なる儀式を目の当たりにする幸運に恵まれたのだった。 シクストゥス5世の在任中=1520年~1590年=、彼は、教皇庁の財政建て直しに尽力するなど、辣腕ぶりを見せていく。

四名の少年使節への教皇二人の歓待ぶりは、イタリア中に伝わり、ローマを辞した一行は、諸侯らからのひきもきらぬ招待ぜめにあうことになる。諸侯たちは、より華やかに、より厚く、この謙虚で礼儀正しい一行を歓待しようと競い合い、「塩で味付けせずにゆでた米と、湯」を好み、肉は鶏肉を少々食べるのみという使節たちを困惑させるほどだった。使節は各所で、豪奢な贈り物を与えられ、財政的援助を受けた。この点でも、ヴァリニャーノの計画は大成功をおさめたといっていいだろう。

1586年4月13日。使節一行はリスボンを出立、帰国の途についた。翌年5月にはゴアに到着し、ヴァリニャーノとの再会に歓喜したものの、日本では、キリスト教徒にとって暗い受難の日々が始まろうとしていた。豊臣秀吉が87年に「バテレン(宣教師)追放令」を発布。使節一行は帰国が許されず、ゴアで足止めをくうことになる。日本は、急速に反キリスト教へと向かい始めており、これはヴァリニャーノにとって、最大かつ致命的ともいえる誤算だったのである。

ヴァリニャーノとともにゴアを出港し、マカオを経てようやくなつかしい長崎へと一行がたどり着いたのは、90年7月21日のことだった。まだ見ぬヨーロッパへと大海原にこぎだしてから、8年もの月日が流れていた。

このあと、使節一行は上京、91年3月に豊臣秀吉の聚楽第に招かれる。ヨーロッパから持ち帰ったクラヴィチェンバロ(小型ピアノ)の演奏を披露したあと、この楽器および数々の欧州産の品々を献上。秀吉からは、豊臣家に仕えるよう言われるが、4人とも丁寧にそれを辞退したのだった。やがて徳川幕府の時代を迎えた日本が、鎖国とキリスト教の完全禁止に踏み切るのは読者の方々もご承知のとおりだ。

ヴァリニャーノの誤算は、もはや誤算では済まされぬほど深刻化しており、時代の流れを変えることは、絶大であるはずのカトリック教会の力をもってしても不可能だった。ヴァリニャーノは弾圧を逃れながら、日本、ゴア、マカオを行き来し布教活動を続け、最後はマカオで67年の生涯を終えるが、まず 帰国以降の四名の史跡を記しておこう。

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 ☛ ☞  “伊東 マンショ”
天正18年(1950年)、日本に戻ってきたマンショらは翌天正19年、聚楽第豊臣秀吉と謁見した。秀吉は彼らを気に入り、マンショには特に強く仕官を勧めたが、司祭になることを決めていたためそれを断った。その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続け、文禄2年(1593年7月25日)、他の3人と共にイエズス会に入会した。

その後、慶長6年には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った(この時点で千々石ミゲルは退会)。慶長13年(1608年)、伊東マンショ、原マルティノ中浦ジュリアンはそろって司祭に叙階された。再び帰国したマンショは小倉を拠点に活動していたが、慶長16年(1611年)に領主細川忠興によって追放され、中津へ移り、さらに追われて長崎へ移った。長崎のコレジオで教えていたが、慶長17年(1612年11月13日)に病死した。

 ☛ ☞  “千々石 ミゲル”
文禄2年、他の3人と共にイエズス会に入会した。だが千々石は次第に神学への熱意を失ってか勉学が振るわなくなり、また元より病弱であった為に司祭教育の前提であったマカオ留学も延期を続けるなど、次第に教会と距離を取り始めていた。欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、欧州滞在時点でキリスト教への疑問を感じていた様子も見られている。

そして、1601年、キリスト教の棄教を宣言し、イエズス会から除名処分を受ける。棄教と同時に洗礼名を捨てて千々石清左衛門と名を改め、伯父の後を継いだ従兄弟の大村喜前が大村藩を立藩すると藩士として召し出される。大村藩からは600石の領地=伊木力=を与えられる。 後に、千々石は棄教を検討していた大村の前で公然と「日本におけるキリスト教布教は異国の侵入を目的としたものである」と述べ、主君の棄教を後押ししている。

また藩士としても大村領内での布教を求めたドミニコ会の提案を却下し、更に領民に「修道士はイベリア半島では尊敬されていない」と伝道を信じない様に諭したという。イエズス会の日本管区区長に推挙された原マルティノやマカオへ派遣された伊藤マンショと中原ジュリアンらが教会への忠誠を続ける中、共に欧州でキリスト教の本山を見聞きして来た千々石が反キリストに転じた事は宣教師達の威信を失わせる。

こうした出来事は後に日蓮宗への改宗を迫った加藤清正と並んで大村喜前の棄教とキリシタン弾圧の後押しとなったとする論もある。一方、自身も大村喜前と不仲となり、藩政からは遠ざけられた。加えて本家筋として肥前有馬氏を継いでいたもう一人の従兄弟で、やはりキリシタン大名であった有馬晴信の遺臣による暗殺未遂が起きるなど親キリシタン派からも裏切り者として命を狙われた。晩年については現在も謎に包まれているが、領内で隠棲したものと考えられている。伊木力の伝承では大村喜前に対する恨みを弔う為、伊木力から大村藩の方を睨む様にして葬られたという。

 ☛ ☞  “中浦 ジュリアン”
司祭叙階後は博多で活動していたが、慶長18年(1613年)領主黒田長政がキリシタン弾圧に乗り出したため、そこを追われ長崎に移った。翌慶長19年(1614年)の江戸幕府によるキリシタン追放令の発布時は、殉教覚悟で地下に潜伏することを選んだ。ジュリアンは九州を回りながら、迫害に苦しむキリシタンたちを慰めていた。

二十数年にわたって地下活動を続けていたジュリアンであったが、寛永9年(1632年)ついに小倉で捕縛され、長崎へ送られた。そして翌寛永10年(1633年10月18日)、イエズス会員神父のジョアン・マテウス・アダミアントニオ・デ・スーザクリストファン・フェレイラ、ドミニコ会員神父のルカス・デ・スピリト・サントと3人の修道士と共に穴吊りの刑に処せられた。

穴吊りの刑では全身の血が頭にたまり、こめかみから数滴ずつ垂れていくため、すぐに死ねずに苦しみもがくという惨刑であった。あまりの苦しみに人事不省の状態でクリストファン・フェレイラが棄教し、ほかの人々は教えを捨てずにすべて殉教した。最初に死んだのは中浦ジュリアンで、穴吊りにされて4日目であった。65歳没。役人に対し毅然として「わたしはローマに赴いた中浦ジュリアン神父である」と最期に言い残したといわれている。
なお、殉教から374年が経過した2007年6月、ローマ教皇ベネディクト16世は、中浦ジュリアンを福者に列することを発表し、2008年(平成20年)11月24日に長崎で他の187人と共に列福式が行われた。天正遣欧少年使節の一員で福者になるのは彼が初めてである。

 ☛ ☞  “原 マルティノ”
1601年、同学の三名とマカオのコレジオに移った(この時点で千々石は退会)。 1608年にはそろって司祭になる。しかし、1614年、江戸幕府のキリシタン追放令を受けて三度マカオにむかって7月に出発。マカオでも日本語書籍の印刷・出版を行い、マンショ小西ペトロ岐部らがローマを目指した際には援助した。

1629年10月23日に死去。遺骸はマカオの大聖堂の地下に生涯の師アレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に葬られた。

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===== 続く =====

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