天正遣欧使節を仕組んだ男=08=終節

❢❢❢  イエズス会宣教師ヴァリニャーノ  ❢❢❢

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 ヴァリニャーノの誤算は、もはや誤算では済まされぬほど深刻化しており、時代の流れを変えることはなどできぬ相談であった。 絶大であるはずのカトリック教会の力をもってしても不可能だった。豊臣秀吉による禁教令が施行されていた。キリシタン禁止令である。 ヴァリニャーノは弾圧を逃れながら、日本、ゴア、マカオを行き来し布教活動を続け、最後はマカオで67年の生涯を終えるのだが、苦闘の大海原を乗り切って帰国した四名の若き使節を待ち受けていたのはこの時代の変革であった。 前節で帰国後の四名の運命を鳥瞰したが、キリシタン追放令の背景を探って、この拙文を閉じよう。

織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉は当初は信長と同様にキリスト教容認の立場を取っていた。 しかし、九州平定後の1587年7月(天正15年6月19日)にキリスト教宣教の制限を表明する。

この年の5月29日、ヨーロッパを離れた天正遣欧少年使節四名は、インドのゴアに到着。  ゴアにてヴァリニャーノに再会。 また、コレジオにおいて原マルティノの演説が行われている。 さらには、派遣に力を貸した大村純忠が同月に長崎で死去、6月 豊後において大友宗麟が死去している。 そして、三年後の1590年7月21日(天正18年) 使節団がヴァリニャーノを同行し、長崎に帰港。 翌年の3月3日には(天正19年) 聚楽第において豊臣秀吉を前に、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏している。 日本で初めての活版印刷機を導入するなどヴァリニャーノの絶頂期であったろう。

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  秀吉の表明は宣教師(バテレン)の国外退去を求める物であったが、布教に関係しない外国人(商人)の出入りは自由なままであり、また(強制性を伴わない限りにおいて)個人でキリスト教を信仰すること自体も許されていた。 大名のキリスト教への改宗についても秀吉の許可が必要だったという点を除けば可能であったが、実際には政治的圧力によって既にキリシタン大名であった黒田孝高が棄教したり、高山右近が信仰のために地位を捨てるということもあった。 一方で小西行長有馬晴信のようにキリスト教徒のままでいた者もいた。

また退去を宣告された宣教師たちは平戸に集結して抗議を行い、南蛮貿易を重く見た秀吉は以後黙認する形を取っている。 結果として、追放令以後も宣教師達は(制限付きだが)活動することはできた。 むしろ、この後、関ヶ原の戦い前後まで毎年1万人余が新たに洗礼を受けていたなど、キリスト教の広がりは活発であった。≪秀吉が禁教令を発令した目的には諸説あり、①外交権、貿易権を自身に集中させ国家としての統制を図るため、 ②九州で日本人の奴隷売買が行われていると知り、それを禁止させるため、 ③キリスト教徒による神社仏閣への迫害、等である。 しかし、バテレン追放令は日本で最初の国策としてのキリスト教への制限ではあるが、キリスト教やその信者への弾圧が目的ではなく、また形式的な物であったことに注意が必要≫

時は流れ、秀吉が再び禁教令を出したのは1596年。 当時、京都で活動していたフランシスコ会(一部イエズス会)の教徒たちを捕らえて処刑された(日本二十六聖人)。 この禁教令が発令された理由についてはよく「サン=フェリペ号事件」が挙げられる。 通説においては、サン=フェリペ号の船員が宣教師はスペインが領土征服のための尖兵であると述べたことで、秀吉がキリスト教を警戒したためだとされる。

一方でやはり信徒に対する強制改宗などの政策は取られず、京都のフランシスコ会以外には弾圧は加えられなかった。 キリスト教は建前上は禁止だがお目こぼしを受けていたという情勢下で、フランシスコ会を始めとする新参の修道会の活動が目に余ったために秀吉が弾圧に踏み切ったとおもわれるが、この時も一般教徒に対する大きな迫害などは行なわれていない。

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  1598年(慶長3年)、マカオで活動していたヴァリニャーノは、最後の日本渡航の目的として、日本布教における先発組のイエズス会と後発組のフランシスコ会などの間に起きていた対立問題の解決を図ることであった。 大きな布教の達成を目指した最後の来日を行う。 そして、目的は達せられずに1603年(慶長8年)に最後の巡察を終えて日本を去り、3年後にマカオでその生涯を終えた。 遺体は聖ポール天主堂の地下聖堂に埋葬されたが、その後天主堂の焼失・荒廃により地下聖堂ごと所在不明となった。
前節で記したように、棄教した千々石ミゲルの晩年はよくわかっていない。 しかし、伊東マンショは長崎で、原マルチノは追放先のマカオでそれぞれ病死。 中浦ジュリアンが1633年、長崎で殉教するに至り、使節に参加した主要メンバーはすべてこの世を去ったのだった。 ヴァリニャーノにとって、せめてもの救いは、彼によって運命が変えられたといえる、遣欧使節4人の不遇の最期を知ることなく神の御許へ旅立つことができたことだろう。

使節がシントラで滞在したというペニャ・ロンガには、一枚のアズレージョ(タイル)が残されている=写真上。複数箇所が欠けているそのタイルには、やや稚拙な筆運びながら、荒波に浮かぶ船と、4人の顔が見える。 ヴァリニャーノという一人の修道士に導かれ、420年も前にこの地に足跡を残した少年たち。 そのタイルの青い色は、あくまで鮮やかだった。 このタイルを前にして、日本の情勢の激変という大きな誤算に見舞われながらも、彼らがその礼儀正しさや堂々とした態度で、ヨーロッパの人々を感嘆させたという事実と宣教師・ヴァリニャーノの布教への情熱を思わずにはいられない。

  アズレージョは、スペインやポルトガルで盛んに生産されてきたタイルのこと。もともとイスラム系ムーア人がもたらした技術。ポルトガルでは教会、宮殿から一般家庭まで、ありとあらゆる場所で目にすることができる。このペニャ・ロンガに残るアズレージョがいつ作られたか、詳しいことは分かっていない。

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===== 続く =====

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