河井道とボナー・F・フェラーズ=02=

❢❢❢  天皇を救った男、小泉八雲に誘われ 河井道との交流のなかで・・・・  ❢❢❢

11-29-1終戦期の世界の天皇認識 ◆◇

「処刑すべし」; 33% / 「終身刑」; 11% / 「追放」; 9% / 「裁判で決めるべきだ」; 17% / 「政治的に利用すべきだ」; 3% / 「無罪」; 4%

上の数字は終戦直前の1945年6月にギャラップによって実施された世論調査結果である。 「天皇をどうすべきか」との問いに対して、三人に一人が処刑を望んでいた。 戦争犯罪人の筆頭として天皇を処刑すべきだとの主張は当時、米国に限らず、中国、ソ連、オーストラリアなどを中心に根強いものがあった。

正式に動き出そうとしていた戦勝国による極東委員会は、占領政策に大きな権限を持つと予想され、マッカーサー元帥の権限に制限が加えられる可能性が高まっていた。 極東委員会には既に始まりつつあった冷戦相手のソ連が含まれ、オーストラリアなどから天皇の戦争責任を追及する声が日増しに強まり始めていた。

しかも、米国務省は中国との外交関係を重視する立場から天皇制廃止論を唱えるチャイナ・クラウド(中国派)と、日本との外交関係重視から天皇制利用論を唱えるジャパン・クラウド(日本派)とが激しく対立していた。 チャイナ・クラウドの急先鋒になったのはディーン・アチソンオーエン・ラティモアである。 特にラティモアは天皇と天皇位継承の資格のあるすべての男子を中国に流して抑留し、国連の監視下に置くべきだと主張した。

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 これに対して、ジャパン・クラウドの代表格を務めたのが1932年から10年間にわたって駐日大使を務めたジョセフ・グルー(1880-1965)である。 グルーは国務省極東局局長を経て、44年12月に国務次官に就任する。 日本をかばいすぎるとの激しい批判を浴びつつも「日本をハチの巣とすれば、天皇は女王バチ。 女王バチが死んだら、他のハチはすべて死んでしまう」とする天皇「女王バチ」論を展開し、天皇制を擁護した。

しかし、このグルーも日本のポツダム宣言受託を見届けながら辞表を書いた。 グルー退官後、チャイナ・クラウドのディーン・アチソンが新たな国務次官に就任する。 日本側は絶望的な状況の中でGHQを迎え入れることになる。

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☛ ☞   “ディーン・グッダーハム・アチソン(Dean Gooderham Acheson)

アチソンは法律事務所で働いていたが、フランクリン・ルーズベルト政権下で1933年5月、財務次官に任命された。 だが11月には同職を辞任、弁護士業に戻った。 しかし1941年には政務次官補に再度任命され、三年間務める。 日本の降伏が間近な頃、天皇制は時代錯誤の危険な封建的制度であると国務次官補アチソンは論じ、天皇制存続を認めた国務次官ジョセフ・グルーと議論している。

1945年8月、アチソンはトルーマン大統領によって国務次官に任命され、続く2年間にわたってアチソンはトルーマン・ドクトリンマーシャル・プランの立案に重要な役割を果たした。 アチソンは革命の危険にある国々での共産主義の普及を停止させる最良の方法は、それらの国々の進歩的勢力と連携することであると主張した。 その後、1949年に、マーシャルの後任として、国務長官に任命された。

アチソンは国務長官として共産主義の封じ込め政策を継続し、NATOの結成に尽力した。 極東地域でも1950年1月、日本・沖縄・フィリピン・アリューシャン列島に対する軍事侵略に米国は断固として反撃するとした「不後退防衛線(アチソン・ライン)」演説を示した。 ただし、この演説は台湾・朝鮮半島・インドシナなど除外地域については明確な介入についての意思表示を行なわなかったことから、朝鮮戦争の誘因になったとされている。
しかしながら、アチソンの政策は受動的な封じ込めであり、共産主義陣営に対して積極的に攻勢をとらなかったとして、ジョセフ・マッカーシーをはじめとする共和党の急進的メンバーによって攻撃されることとなった。 アチソンは封じ込めと宥和を同等視するアメリカ人達から嘲笑の的となった。 1950年12月15日、下院共和党は満場一致で彼の罷免を可決している。

更には、アチソンは朝鮮戦争におけるダグラス・マッカーサー将軍とハリー・S・トルーマン大統領の論争で大統領の側に付き、強硬派を狼狽させた。 アチソンとトルーマンは戦争を朝鮮半島内に限定しようとしたが、マッカーサーは中華人民共和国への戦線拡大を要求し、大統領に罷免された。

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☛ ☞   “ジョセフ・クラーク・グルー(Joseph Clark Grew)と「三人委員会」

グルーは陸軍長官ヘンリー・スティムソンと海軍長官ジェームズ・フォレスタルの2人とともに「三人委員会」のメンバーであった。 「三人委員会」は、日本を原子爆弾を使うことなく降伏させようと建議し、それを受けて陸軍次官補ジョン・マクロイ)は日本への降伏文書を立案し、ポツダム宣言の第12条に盛り込まれることとなった。

ところが、それは日本政府の「天皇制のもとでの間接統治」を許容する可能性を広く残していたため、トルーマン大統領はポツダム会談へ向かう船旅の間、対日強硬派のジェームズ・バーンズ国務長官の影響を受け、宣言内容の変更を余儀なくされた。

グルーは、個人的意見として、友人に、十分に発達した民主主義を日本に期待するのはばかげていると述懐していた。 1945年5月、グルーはトルーマンに対して、天皇制はまさしく封建主義の名残りであり、「長期的な観点にたてば、日本においてわれわれが望みうる最善の道は、立憲君主制の発展である。」と語った。

グルーは天皇が日本人にどれほど重要か理解していたため、原子爆弾を使うことなく日本の降伏に貢献できたと考えており、ドイツが降伏した1945年5月末から、ポツダム宣言に「天皇の地位保障」を盛り込む事を再三トルーマンに進言していたが、結果としては広島・長崎への原爆投下を避けることができなかった。 「降伏が1945年5月、またはソ連の参戦や原子爆弾使用前の6月か7月に行われたら、世界を救うことができたのだが」と述懐している。

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 ===== 続く =====

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