河井道とボナー・F・フェラーズ=03=

❢❢❢  天皇を救った男、小泉八雲に誘われ 河井道との交流のなかで・・・・  ❢❢❢

11-30-1

◇◆ 対日心理戦の情報将校フェラーズ  ◆◇

ハーンの『神国日本』をはじめとした書物を読破し、1930年にドロシー夫人を連れて再来日したフェラーズは、わざわざ東京西大久保の小泉家を訪ねている。 ハーンの未亡人や息子に会いに行き、小泉八雲の墓をたずねた。 この訪問以降 ハーンのご遺族と親交を重ねている。 彼は、「ハーンは、日本人を理解した、初めての、そして唯一の西洋人であったろう」と記した文を残しているが、“ハーン・マニア“になったフェラーズの感想だった。

そして 八雲への傾倒は、米国職業軍人としてのフェラーズが、心理戦・情報戦のエキスパートとなっていく過程でもあった。 彼の著作を見れば、1935年年に陸軍指揮幕僚大学の卒業論文として書かれた「日本兵の心理(The Psychology of the Japanese Soldier)」は、≪日本帝国の運命は、軍の指導者が握っている。彼らは、天皇にのみ責任を負っている。天皇は神聖で不可侵なものとされている。音楽にたとえれば、軍は天皇に次いで日本全体の基調音をなしている≫と、「西洋的な戦略を軽視」し「自信過剰で、敵を過小評価する」日本兵の心理を分析している。

1937年年には、フェラーズはフィリピン軍軍事顧問だったダグラス・マッカーサー(後のGHQ総司令官)及びフィリピン独立準備政府ケソン大統領と共に3度目の来日をし、2・26事件後の軍部台頭、日中戦争へ向かう日本を目の当たりにしていた。 この時マッカーサーもケソンも、フェラーズの「日本兵の心理」を読んだという。当時の駐日米国大使はジョゼフ・グルーで、マッカーサー一行の歓迎レセプションには、結婚して姓の変わった一色ゆり夫妻も出席していた。 この年フィリピンから米国に戻り、陸軍大学に入学したフェラーズは、翌38年にも4度目の来日をし、「天皇のために死ぬ覚悟を決めているように見える」出征兵士たちを目撃しているた。

こうした経歴から、日米開戦後にフィリピンからオーストラリアのブリスベンまで退却した南西太平洋軍司令官マッカーサーに請われ、フェラーズは、1943年9月にマッカーサー司令部統合計画本部長に就任、マッカーサーの軍事秘書、PWB=心理作戦本部長として活躍するのだが、彼に多大な影響を与えた日本人教育者との関りを話しておこう。

11-30-2

 彼女は、戦争がまだ始まっていない時から、ボナー・フェラーズに日本人の考え方や感じ方を正確に教え、今のアメリカの日本に対する態度は、日本人のプライドを痛く傷つけるものであり、アメリカがそのまま日本を揶揄し続けると、将来、戦争になる危険性が少なからずあると警告するほどの世界観を持ち合わせていた。 河合道は、日本人とアメリカ人の両方をよく理解する数少ない日本人のひとりであった。 「ミチ・カワイは傑出している」というのが、フェラーズの彼女への印象だった。

ボナー・フェラーズは、クエーカーである。 1896年にイリノイ州リッジファームにあるクエーカー教徒の農家に生まれる。 リッジファーム高校卒業後、クエーカー派のアーラム大学に進み学んでいた。 彼はこのアーラム大学で日本人留学生・渡辺ゆり=後に結婚して一色ゆりと変名=と親交を結ぶ。 当然のことながら渡辺ゆりはクエーカーの影響を受けていた。 彼女に出会ってから、フェラーズは日本に興味を持ち、渡辺ゆりや彼女の友達に、「日本をよく知りたいので、本を読みたいが、何を読めばいいですか?」と、尋ねていたのだ。 その時に、渡辺ゆりは、「小泉八雲の本がよろしいです。 でも、わたしは彼が好きではありません。彼はクリスチャンじゃないから。」と、答えている。

渡辺ゆり(一色ゆり )は河合道の教え子である。 恩師の勧めでアメリカに留学し、そこでゆりがフェラーズと友人になった。 ゆりはフェラーズが出会った最初の日本人で、後に フェラーズの執った行動が日本国家の運命を決定するのであるが、河合道が彼の決断に大きな影響を与えるのである。 従って 全ては、渡辺ゆりとボナー・フェラーズが出会ったことから始まった。 渡辺ゆりは生涯を恩師とともにその行動を共にしているのであるから・・・・

11-30-3

 1916年にフェラーズはアーラム大学を退学、軍人の道を志して陸軍士官学校(ウェストポイント)に進む。 陸軍士官学校卒業後、中尉となり1921年からフィリピンに駐留、-22年に休暇を利用して日本を訪れ渡辺ゆりと再会し、この時恵泉女学園を設立したクリスチャンの河井道を紹介されている。 この時期から、ラフカディオ・ハーンの文学への傾注著しく、-30年には夫人と共に再来日しハーンの遺族を訪ねているのは前記した。

河井道とは、恵泉女学園の創設者として、日本の女子教育に多大な功績を残した教育者である。 しかし彼女には、天皇を救ったというもう一つの功績があった。 彼女の尽力がなければ、昭和天皇は戦争責任者として処断される可能性があったのである。

戦後、天皇の戦争責任が論じられた時期、「天皇には戦争責任はない」とするマッカーサー(占領軍の最高司令官)の進言がアメリカをはじめ、連合国の流れを変えた。 彼の決断に決定的な影響を与えたのが、副官ボナ・フェラーズの覚書であった。 この覚書の作成に手を貸したのが、河井道であった。 天皇を救いたいという彼女の一念が、この文章に込められており、マッカーサーを動かすことに成功したのである。

11-30-4

===== 続く =====

前節へ移行 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/11/29/

後節へ移動 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/12/01/

※ 本文下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

                         *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;歴史小説】 http://ameblo.jp/thubokou/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中