河井道とボナー・F・フェラーズ=04=

❢❢❢  天皇を救った男、小泉八雲に誘われ 河井道との交流のなかで・・・・  ❢❢❢

12-01-1

◇◆ 天皇を救う女性・河合道 ◆◇

河井道は恵泉女学園の創設者として、日本の女子教育に多大な功績を残した教育者である。しかし彼女には、天皇を救ったというもう一つの功績があった。 彼女の尽力がなければ、昭和天皇は戦争責任者として処断される可能性があった。

戦後、天皇の戦争責任が論じられた時期=前節参照=、「天皇には戦争責任はない」とするマッカーサー(占領軍の最高司令官)の進言がアメリカをはじめ、連合国の流れを変えた。 彼の決断に決定的な影響を与えたのが、副官ボナ・フェラーズの覚書であった。 この覚書の作成に手を貸したのが、河井道であった。天皇を救いたいという彼女の一念が、この文章に込められており、マッカーサーを動かすことに成功したのである。

さて、河井道が誕生したのは、1877年7月、三重県の宇治山田市(現在の伊勢市)。父の範康、母の菊枝の長女で、河井家は代々伊勢神宮の神官を務める格式の高い家柄だった。 道が、生涯天皇を敬慕したのは、こうした家庭環境によることは間違いない。

しかし、明治新政府は財政難から世襲の官職の多くを廃止したため、道の父範康も神官の職を失うことになる。窮地に陥った河井家が選び取った道は、北海道の開拓。 慣れ親しんだ町を離れ、北海道函館に渡った。 1885年のことで、道は8歳であった。 失意の父に希望を与えたのは、キリスト教であった。 宣教師として函館に渡っていた従兄弟と偶然にも再会したことがきっかけである。父は従兄弟が持ってきた分厚い聖書を熱心に読むことで、心の飢えを満たそうとしたのであろう。

父は毎日、伊勢神宮のある南を向いて神道の祈りを捧げることを日課としていたが、キリスト教に出会って以来、南への祈りの後、くるりと北に向きを変えて、新しい神様に祈りを捧げるようになった。父と共に祈りを捧げていた道にとって、神道とキリスト教は心の深いところで不可分のものとして結びつくようになっていた。

河井道の生涯において最も強い影響を与えた人物が、新渡戸稲造であった。彼と出会ったのは、道が札幌にあるスミス女学校で学んでいた時のこと。新渡戸は母校の札幌農学校(現在の北海道大学)の教授を務めるかたわら、隣接するスミス女学校に出張講義に出向いていたのであった。新渡戸29歳、道は14歳で、二人の交流は終生続いた。

12-01-2

☛ ☞  “アメリカ留学”

1898年、河井道はアメリカ留学のため太平洋を渡り、最初の寄港地カナダのバンクーバーに到着した。新渡戸の強い推薦で実現したものである。 明治31(1898)年の早春、病気療養のために妻の故国・米国に渡る新渡戸に同道する形で、21歳の河井はアメリカに渡り、奨学金を得て、ブリンマー女子大に学ぶことになった。 帰国後の彼女は、女子英学塾(現在の津田塾大学)の教授となり、英語、歴史、購読を受け持った。 同時に、日本YWCAの設立に奔走し、初代総幹事となった。その関係で、32歳から1年半も欧米を回り、その経験が教育者として結実する。 20年後に恵泉女学園を開校、婦女子の教育に生涯を奉げていく。

初めての渡米に希望と不安に平静な心を見失いがちなミチにバンクーバーまで同行した新渡戸は彼女に留学目的を語り始めた。「君をアメリカまで連れてきたのは、単に知識を高めるためではない。アメリカで本や学校の外にあるたくさんの素晴らしいもの、そこから多くを吸収してもらいたい。そして、ごくありふれた場所に立派な人格が溢れている。そういう人たちと一人でも多く接触してもらいたいのだ」。 真の教育は、本や学校の外にあるという新渡戸の教えは、その後のミチの人生訓となるのである。

2年間の予備校生活の後、河井道はフィラデルフィア郊外にあるプリンマー女子大学に合格した。 授業に出てみて、最初に道を驚かせたのは、学生たちの態度である。 先生の話を遮って議論をしたり、先生の意見に反論する者までいるではないか。 先生には最大限の敬意を払うよう教えられている日本では、およそ考えられない光景だった。

プリンマーでの4年間、道は大学で学んだ学問以上のことを学んだ。 アメリカ人の心の広さ、生活に根ざした信仰、協力の精神、他者へのいたわりなど。 卒業の前年、マーフィ夫妻の好意で、夏休みに2ヶ月間ヨーロッパ旅行の機会まで与えられた。 夫妻は、決して豊かとは言えない中産階級。 節約して貯めたお金で奉仕活動を積極的に展開する心優しいクリスチャンだった。 「日本のように古い伝統を持ったヨーロッパを知る必要がある」と言って、資金を募ってくれたのだ。 新渡戸が言った「立派な人格」に触れた思いであったろう。

12-01-3

☛ ☞  “恵泉女学園の開校”

プリンマー女子大学を卒業した河井道は、1904年帰国の途についた。 27歳の道は、帰国後、津田梅子が開いた津田英学塾に呼ばれ、英語、歴史などを講義した。 力強く、情熱に溢れ、気品ある彼女の講義は、女子学生の間で大変評判になり、「河井先生のためならば死んでもいい」と思うほどの熱狂的な女学生がたくさん現れた。 生涯、河井道に寄り添いながら生きた一色ゆり(旧姓渡辺)も、その一人であった。一色氏と結婚するときも、「河井先生の仕事を助ける」ということを条件に結婚を承諾したほどである。

帰国してから約20年間、道はYWCA(キリスト教女子青年会)の総幹事として、その組織化と発展に尽力した。 総幹事を辞任して、道は長い間心に温めてきた夢の実現に向かう決断をする。それは、キリスト教主義の女学校を作る夢だった。 この計画を新渡戸に相談したところ、新渡戸は真っ向から反対した。 それもそのはず、資金、土地、建物、教師など裏付けとなるものは何もない。

ただ学校設立の思いだけが先行していたのだ。 「今の状態で女学校を始めたら、経営に苦しんで終わるだけだ。悪いことは言わない、思いとどまりなさい」と新渡戸は諭した。 しかし、道の教育事業への情熱は、敬愛する新渡戸の助言をしても止めることができないほど、大きなものだった。 道が新渡戸の意見に背いたのが、後にも先にもこの時だけである。

1929年4月、ついに恵泉女学園が開校。 51歳で夢が一つ実現した。 生徒9、先生12人での出発ではあったが、道は12人の献身的な教師と共に、慈母のごとく生徒に接し、全身全霊を打ち込んだ。 2年目からは評判を聞きつけ、入学希望者が激増。 10年目には400人を越す女学校に発展した。 道の情熱が現実の困難に打ち克ったのだった。

12-01-4

 ===== 続く =====

前節へ移行 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/11/30/

後節へ移動 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/12/02/

※ 本文下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

                         *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】 http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】 http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;歴史小説】 http://ameblo.jp/thubokou/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中