河井道とボナー・F・フェラーズ=06=

❢❢❢  天皇を救った男、小泉八雲に誘われ 河井道との交流のなかで・・・・  ❢❢❢

12-03-5

◇◆ 尋ね人  ◆◇

ジャパン・クラウドの代表格を務めたのが1932年年から10年間にわたって駐日大使を務めたジョセフ・グルー(1880-1965。前節参照)である。 グルーは国務省極東局局長を経て、44年12月に米国の国務次官に就任する。 彼は10年間の経験から、日本をよく理解していた。 また、彼の信条や政治的立場が日本をかばいすぎるとの激しい批判を浴びつつも「日本をハチの巣とすれば、天皇は女王バチ。女王バチが死んだら、他のハチはすべて死んでしまう」とする天皇「女王バチ」論を展開し、天皇制を常に擁護していた。

しかし、このグルーも日本のポツダム宣言受託を見届けながら辞表を書いた。 グルー退官後、チャイナ・クラウドのディーン・アチソンが新たな国務次官に就任する。 1945年8月、アチソンはトルーマン大統領によって任命され、続く2年間にわたってアチソンはトルーマン・ドクトリンマーシャル・プランの立案に重要な役割を果たした。 アチソンは革命の危険にある国々での共産主義の普及を停止させる最良の方法は、それらの国々の進歩的勢力と連携することであると主張していた。 また、天皇排斥の急先鋒の論陣を張り、戦後の日本占領政策に大きく関わっていく。
1949年、マーシャルの後任として国務長官に任命されたアチソンは、国務長官として共産主義の封じ込め政策を継続し、NATOの結成に尽力した。 また、極東地域でも1950年1月、日本・沖縄・フィリピン・アリューシャン列島に対する軍事侵略に米国は断固として反撃するとした「不後退防衛線(アチソン・ライン)」演説を示した。 日本側は絶望的な状況の中でGHQを迎え入れることになる。

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  戦争が終わって2週間目の昭和20年(1945)年8月30日、厚木飛行場に着陸した飛行機から、マッカーサーがコーンパイプをくわえてタラップを降りた。 続く幕僚たちの中に49歳のボナー・フェラーズ准将がいた。 彼はマッカーサーが最も信頼するスタッフの一人で、日本通で知られていた。 彼の最大任務は、天皇の戦争責任を判断し、その処遇に関してマッカーサーに意見書(覚書)を提出することであった。

一行は車を連ねて横浜のホテル・ニューグランドに投宿した。 フェラーズはさっそくホテル側に、「東京にいるミチ・カワイという女性を探して欲しい」と頼んだ。 自分の任務を達成するために河井道の協力が不可欠と考え、彼女を占領軍の相談役にしようと考えていたのである。 欧米を理解し、日本人の感情も理性も語れ、そして国民意思を代弁できる人でなければならない。 河井道が最適であった。

前に触れたように、道とフェラーズの縁は、道の教え子一色ゆり(旧姓渡辺)がアメリカに留学し、そこでゆりがフェラーズと友人になったことから始まった。 ゆりはフェラーズが出会った最初の日本人で、以来日本への興味を深め、日本研究を深めていった。 戦前、フェラーズは5度来日しており、一色家や河井道との親交を深めていた。 彼は、自分の任務遂行のため、まず河井道に会わなければならないと考えていたのである。

すると意外なことに、支配人の中山武夫が「ミチ・カワイ」を知っているという。 中山は以前、商社の米国駐在員としてニューヨークに長く暮らしたことがあり、その英語力を買われて、占領軍の応接役のマネジャーとして雇われ、今日が出社初日だった。 不思議な縁に驚きながら「ミチ・カワイとはどういう知り合いかね」とフェラーズが尋ねると、中山は「十年ほど前に河井先生がニューヨークで講演をなさった時に、私の女房がお世話をさせていただきました」と答えた。 河井は無事で、恵泉女学園を経営しているという。

フェラーズが早速、手紙を河井あてに届けさせたのは9月3日。 この日はちょうど恵泉女学園の2期の始業式で、河井は学校にいた。 まるで天が後押ししているようなとんとん拍子である。 河井はすぐに英文の返事をよこした。
≪あの恐ろしい戦争の日々、私たちは何度、あなたのことをうわさし合ったことでしょう。あなたがご無事でご活躍の様子を知って、こんなに嬉しいことはありません。 あなたにお目にかかりたいのはやまやまですが、お願いですから、いましばらく私たちに会いに来ないでください。 私たちはいまは、ただただ疲れきって、たとえお目にかかっても、あなたを喜ばせるような姿をお見せできません。≫

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  しかし、フェラーズにとっては、そんな悠長な事を言ってはいられなかった。やがて始まるであろう戦犯裁判で、彼は昭和天皇を護らねばならないと考えていたからだ。それは極めて困難な仕事だった。 アメリカのある世論調査では、天皇を死刑にすべきだという意見が33%を占め、それを含めて70%が何らかの処分を求めていた。 さらにオーストラリアとソ連が強く天皇訴追を主張していた。 マッカーサー司令部の中でも、フェラーズ以外の全員が天皇を起訴すべきだと考えていた。

その中で、ただ一人、フェラーズは「天皇裕仁はルーズベルト以上の戦争犯罪人ではない」と信じていた。 家族への手紙では、こう書いたこともある。
≪きょうまで私はルーズベルト大統領がアメリカ国民を戦争に巻き込まないように努力した行動をひとつも見いだすことができない。 そうではなくて逆にあらゆる施策がまっすぐ戦争に向けてリードされた。≫ ・・・・・これは当時の共和党系の人びとの共通認識だったと言える。

しかし、フェラーズはさらに天皇と日本国民の関係について深い洞察を持っており、そこから日本のためにも、またアメリカのためにも天皇を戦争犯罪者として裁くようなことがあってはならない、と考えていた。 そのために協力してくれる日本人として河井道を探していたのである。

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 ===== 続く =====

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