河井道とボナー・F・フェラーズ=08=

❢❢❢  天皇を救った男、小泉八雲に誘われ 河井道との交流のなかで・・・・  ❢❢❢

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❢❢❢ 皇室への敬愛  ❢❢❢

戦争が始まると、河井はよく生徒たちに「この戦争は間違っている」と語り、憲兵隊に呼び出された事もあった。 軍や文部省から御真影(両陛下のお写真)を校内に掲げるよう要請があったが、「校舎があまりにお末すぎて、大切なお写真をお預かりするにふさわしい部屋も安全な場所もありません」と、言葉巧みに逃げた。
しかし宮城遙拝では、頭を上げるのが早い、と生徒たちを叱ったりしている。 キリスト教徒として、天皇をゴッドのように礼拝はしないが、国民としての心からの敬意は払う、というのが、河井道の立場だった。

終戦の日に玉音放送を聞いた時の思いを、後にこう自伝に書いている。 この未曾有の国家的危機に際して、・・・《大道を誤り、信義を世界に失う如き》を戒めよという天皇の父親らしい戒めに対して、国民は孝心を明らかにして従順に従ったのであった。 天皇に対する代々の忠誠心は、塵や埃のように一吹の風にあえなく散ってしまいはしない。

他方、焦土と化した日本に立ったボナー・F・フェラーズは、《7百万の日本兵が降伏したなんて、まるで奇跡のようだ。 日本を占領するために、どれだけの日米の兵士、民間人の命が犠牲になったか・・・考えてみて欲しい》 と、フェラーズは家族への手紙に書いているが、天皇の玉音放送で7百万の将兵がただちに矛を収め、整然と武装解除されつつある姿を見て、フェラーズは「国民が最大の敬意を払うのは天皇」という自分の洞察が正しいという確信を深めていた。

1945(昭和20年)年9月11日、東条英機ら39人が逮捕された。 フェラーズは天皇を護るために早く手を打たねばならないと焦りを覚えていた。 彼は、日本の降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県・厚木海軍飛行場にマッカーサー元帥と日本の土を踏んでいた。

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  一行は車を連ねて横浜のホテル・ニューグランドに投宿した。 フェラーズはさっそくホテル側に、「東京にいるミチ・カワイという女性を探して欲しい」と頼んだ。すると意外なことに、支配人の中山武夫が「ミチ・カワイ」を知っているという。中山は以前、商社の米国駐在員としてニューヨークに長く暮らしたことがあり、その英語力を買われて、占領軍の応接役のマネジャーとして雇われ、今日が出社初日だった。

不思議な縁に驚きながら「ミチ・カワイとはどういう知り合いかね」とフェラーズが尋ねると、中山は「十年ほど前に河井先生がニューヨークで講演をなさった時に、私の女房がお世話をさせていただきました」と答えた。河井は無事で、恵泉女学園を経営しているという。 フェラーズが早速、手紙を河井あてに届けさせたのは9月3日。 この日はちょうど恵泉女学園の2学期の始業式で、河井は学校にいた。 まるで天が後押ししているようなとんとん拍子である。 河井はすぐに英文の返事をよこした。

≪ あの恐ろしい戦争の日々、私たちは何度、あなたのことをうわさし合ったことでしょう。あなたがご無事でご活躍の様子を知って、こんなに嬉しいことはありません。 あなたにお目にかかりたいのはやまやまですが、お願いですから、いましばらく私たちに会いに来ないでください。 私たちは いまは、ただただ疲れきって、たとえお目にかかっても、あなたを喜ばせるような姿をお見せできません。≫

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☛ ☞ “ 「天皇裕仁はルーズベルト以上の戦争犯罪人ではない」 

しかし、フェラーズにとっては、そんな悠長な事を言ってはいられなかった。 やがて始まるであろう戦犯裁判で、彼は昭和天皇を護らねばならないと考えていたからだ。 それは極めて困難な仕事だった。 アメリカのある世論調査では、天皇を死刑にすべきだという意見が33%を占め、それを含めて70%が何らかの処分を求    めていた。 さらにオーストラリアとソ連が強く天皇訴追を主張していた。 マッカーサー司令部の中でも、フェラーズ以外の全員が天皇を起訴すべきだと考えていた。 これは当時の共和党系の人びとの共通認識だったと言える。

その中で、ただ一人、フェラーズは「天皇裕仁はルーズベルト以上の戦争犯罪人ではない」と信じていた。 家族への手紙では、こう書いたこともある。 ≪きょうまで私はルーズベルト大統領がアメリカ国民を戦争に巻き込まないように努力した行動をひとつも見いだすことができない。そうではなくて逆にあらゆる施策がまっすぐ戦争に向けてリードされた。・・・・・・≫
フェラーズはさらに天皇と日本国民の関係について上記のように、深い洞察を持っており、そこから日本のためにも、またアメリカのためにも天皇を戦争犯罪者として裁くようなことがあってはならない、と考えていた。 そのために協力してくれる日本人として河井道を探していたのである。 共にクエカー教徒であり、象徴天皇としての天皇が日本人に与えている心象構造を小泉八雲から汲取っている新鋭にして最高の日本理解者であるボナー・F・フェラーズ。 伊勢神宮の神官の家に生まれ、日米の懸け橋にならんと心血を注いだ新渡戸稲造に心酔傾倒した河井道。

横浜のホテル・ニューグランド支配人の中山武夫はは再び東京に赴き、フェラーズの熱意を道に伝え、強引にも二人を合わせる。 9月23日の事である。 フェラーズの来日3週間が過ぎていた。

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===== 続く =====

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