河井道とボナー・F・フェラーズ=12=

❢❢❢  天皇を救った男、小泉八雲に誘われ 河井道との交流のなかで・・・・  ❢❢❢

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◇◆ 天皇擁護論に次々と手を打つ F・フェラーズ ◆◇

 フェラーズはさらに次々と手を打っていった。 第2の手は昭和天皇ご自身に直接語っていただくことだった。   風邪を引いて寝込まれていた昭和天皇に、戦争への関わりと思いを語ってもらい、寺崎英成ら側近たちが記録した。 この記録は44年後(1990年)に発見されて「昭和天皇独白録」としてセンセーションを起こした。 その英語版がフェラーズの残した文庫から発見された=この文書がどのように使われたのかは分かっていない。 ただ、天皇不起訴という決定に対して米世論が反発した場合、あるいは天皇が証人喚問された場合には、この文書が使われただろう=。

フェラーズがもう一つ打った手は、皇太子にアメリカ人女性の家庭教師をつけることだった。 それによって欧米の世論を軟化させようというのが、狙いだった。 フェラーズが選んだエリザベス・バイニング夫人は、彼と同じクエーカー教徒であり、また夫人の児童文学者としての才能と評判を彼はよく知っていた。 バイニング夫人は4年間、皇太子の家庭教師を務め、帰国後の1952年に著した『皇太子の窓』はアメリカでベストセラーとなり、皇室に対するアメリカ人のイメージを変えるのに大きな役割を果たし、フェラーズの作戦は成就して行く。

この多忙極める駐留軍司令官直属の参謀としてGHQ(米国大使館)内に自宅を構える傍ら、戦災を免れた小泉家にも訪れて、食糧から就職の世話まで、さまざまな援助をしていた。 そこから、フェラーズのもう一つの工作、日本側で天皇の窓口になった寺崎英成と図って、極東軍事裁判(東京裁判)向け「天皇不訴追」のために天皇自身から聞き取りしたオーラルヒストリー「昭和天皇独白録」が紡ぎ出された。 フェラーズの天皇感は小泉八雲の思想に大きく影響されていた。

「昭和天皇独白録」は、NHK取材班が、別テーマでの特集番組取材の過程で、フェラーズの遺宅に、英文タイプ12枚の「by Hidenari Terasaki」とフェラーズの筆で注記された「独白録」要約版が発見され、その経緯と内容、日英語版の綿密な比較は、前述東野真『昭和天皇 二つの「独白録」』に詳しく記載されているが、「独白録」作成そのものに、フェラーズが重要な役割を果たし、「天皇の無罪」を立証して「不訴追」を実現する工作を行っていた傍証である。  そこから、ラフカディオ・ハーン=小泉八雲の日本についての著作を原点として、小泉の思想が渡辺(一色)ゆり、河合道を介して米国陸軍きっての日本通フェラーズに伝わり、「ハーン・マニア」のフェラーズが敗戦時にマッカーサーに働きかけて「天皇不訴追」と「象徴天皇制」成立の有力な原資となった過程が明らかにされていった。

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 ☛ ☞   “「天皇陛下を戦犯より救出したる大恩人」”

こうした中で11月29日に米国政府はマッカーサーあてに天皇の処遇問題に関して、判断に必要な証拠の収集を命じ、マッカーサーに一任されることになる。 本国政府の要請に応じて、フェラーズは休むことなく次の天皇救出工作に着手する。 天皇の無罪を立証するための証拠作りに取りかかったのである。 この中には万が一に備えた天皇自身による立証としての「昭和天皇独白録」含まれていた。 この第二の工作には二人の日本人が関わっている。 前述の寺崎英成と関屋貞三郎である。

関屋は1921年から12年間宮内次長を務め、万年次官と言われた。 そして46年3月には枢密顧問官となり官中・府中とGHQとの「架け橋」を務めた。  寺崎は外務省に入省し、日本大使館の一等書記官として開戦直前期の対米交渉役を務め、ルーズベルトに日本政府の親書を手渡し親善に勤めていた。 外務省アメリカ局長であった兄の太郎と連絡をとる際に、日米関係を表す暗号として一人娘の名前「マリコ」を用いたことで広く知られている。

寺崎は46年2月にフェラーズの提案に基づいて設置された「御用掛」に就任するが、フェラーズの祖母にあたるベッツィー・ハロルドが、寺崎の妻グエンドレン・ハロルドの叔母にあたることがわかり、この奇縁が二人の関係を急速に接近せしめ、頻繁に接触を重ねることになる。 そして、日本語と英語の「昭和天皇独白録」を二人して残したのである。 この歴史の裏に隠されているフェラーズを取り巻く種々の奇縁の輪は彼が敬虔なクエカー教徒であり、自然体で生きようとする質素を旨とするクエカー教徒の人間関係の神妙さが浮かび上がる。

日本の宗教と文化を愛し深く理解した小泉八雲の思想が、フェラーズを通じて甦ったかたちである。

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 ☛ ☞   “ フェラーズの日本人への献身 

東京裁判開廷から2ヶ月過ぎた昭和21(1946)年7月、フェラーズは陸軍を退役して帰国の途についた。その際に、次のような手紙を、天皇の側近・寺崎英成に書き送った。 あなたの有能な上司、すなわち天皇陛下に次に会うとき、私の気持ちをぜひ伝えてください。 私が日本を去るのは、私が日本にいるよりもアメリカに帰った方が、日米両国の相互理解の増進により多くの貢献ができると確信したからです。 天皇陛下に心からの敬意を払っています。

フェラーズはこの言葉通り、帰国後は全米各地を回って極東問題やソ連についての講演を行い、雑誌に記事を投稿した。  『リーダーズ・ダイジェスト』1947年7月号には、『降伏のために戦った天皇裕仁』と題して、昭和天皇を讃えた。 その中ではソ連が東洋における支配的地位を狙って、日本からの和平斡旋の依頼を握りつぶして、戦争を長引かせ、自らに最も好都合な時に対日戦を始めた事を指摘した。

1950年2月、ソ連は突如として天皇を細菌化学戦争の計画立案に関わった罪で「追加戦犯」として、国際軍事法廷で裁くことをアメリカに求めた。 しかし米国は解決済みの問題として、これを黙殺した。 そして、 昭和46(1971)年2月、日本政府はフェラーズに対して、勲二等瑞宝章を贈った。 その申請書にはこう書かれていた。

ボナー・フェラーズ准将は・・・連合国軍総司令部に於ける唯一の親日将校として天皇陛下を戦犯より救出したる大恩人である。

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 ===== 続く =====

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