十字軍とテンプル騎士団=02=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍” ❢❢❢

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◇◆ 十字軍が出立した ◆◇

 トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領された東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノスが、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼した。 1095年の事である。 このとき、大義名分として異教徒・イスラム教国からの聖地エルサレムの奪還を訴えた。 この時皇帝アレクシオスが要請したのは東ローマ帝国への傭兵の提供であり、十字軍のような独自の軍団ではなかった。

ウルバヌス2世は1095年11月にクレルモンで行われた教会会議の終わりに、集まったフランスの騎士たちに向かってエルサレム奪回活動に参加するよう呼びかけた。 彼はフランス人たちに対して聖地をイスラム教徒の手から奪回しようと呼びかけ、「乳と蜜の流れる土地カナン」という聖書由来の表現をひいて軍隊の派遣を訴えたのである=クレルモン公会議=。

クレルモン公会議の決定を受けてヨーロッパ各地の諸侯や騎士は遠征の準備を始めたが、十字軍の熱狂は民衆にも伝染した。 翌年の1096年、郷士や貴族からなる十字軍の出発する数ヶ月前に、フランスで説教師のアミアンの隠者ピエールに率いられた民衆や下級騎士の軍勢4万人がエルサレムを目指して出発した。これが民衆十字軍と呼ばれるものである。 民衆十字軍は東上の途中でユダヤ人を各地で虐殺し、ハンガリー王国ビザンツ帝国内で衝突を繰り返しながら小アジア・アナトリア半島に上陸したものの、統制の取れていない上に軍事力も弱い民衆十字軍はルーム・セルジューク朝クルチ・アルスラーン1世によって蹴散らされ、多くのものは殺されるか奴隷となり、なんら軍事的成果を上げることもなく崩壊した。 しかしピエールらごく一部は生き延び、編成中の十字軍へと再び参加した。

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☛ ☞   “歴史的背景”

中世初期の西欧の状況は、フランス王国二番目の王朝・カロリング朝の分裂後、北欧のヴァイキングと東欧のマジャール人がキリスト教化されたことで、西ヨーロッパのカトリック教圏はようやくの安定をみせたが、その政治的安定の下では、騎士は互いに私闘を繰り返したり、略奪により農民の生活を脅かすようになっていた。またこの時期に、ヨーロッパは寒冷な気候から温暖な気候に変化し、11世紀半ば以降には農業生産力の増加、出生数の増加などが見られる時代に入りつつあった。 民衆の人口増大は、商人階級の増加や下克上、統治者たちは、華美を誇るロマネスク建築の大聖堂や新都市の建設していた。 その財政確保のために、辺境への移住と開墾を強制していた。 民衆の間では聖遺物信仰や聖遺物収集熱の拡大、サンティアゴ・デ・コンポステーラエルサレムへの巡礼などへとあふれ出した。

やがて、このエネルギーが非カトリック教徒に向けられることになった。 イベリア半島=イスラム教徒の進出=で行われたレコンキスタはその代表的な動きである。 この異教徒排斥運動は、他の一面として、イスラム教徒との戦闘による戦利品の獲得や略奪、人身売買という経済的な利益獲得という目的を持つように成っていた。 北海沿岸を制圧したノルマン人(ヴァイキング)と東方正教徒が地中海のシチリア島の支配をめぐって争い、ピサジェノヴァアラゴンといった国々はマヨルカ島サルデーニャ島でイスラム教徒と争い、イベリア半島の沿岸地域からイスラム教徒を駆逐したのです。

このように、十字軍運動が始まる前から、西欧諸国の周辺地域への寇掠は始まっていたのである。 地中海における豊かなイスラム世界やビザンツ世界との争いの中で、カトリック信者の中に富貴の獲得という新たな目標が芽生え始めていた。 11世紀に入ってキリスト教徒の間でエルサレムへの巡礼が流行していたこともあいまって、西欧の人々は東方へ目を向けるようになった。 そして、1074年、教皇グレゴリウス7世は「キリストの騎士たち」に向かいイスラム教徒の猛威に脅かされていた東ローマ帝国への支援を訴えたが、東ローマ帝国救援という呼びかけは西欧の人々を全く動かすことが無かった。

このような流れの中で、教皇ウルバヌス2世が訴えたエルサレム奪回という目標は、軍人に限らずカトリック諸国の広汎な人々の熱狂を呼び起こすこととなった。 ≪新世界・新領土の入手≫戦乱により育まれた軍事的な素養が、経済的な利益や宗教的情熱と結びついて燃え上がったのである。

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☛ ☞   “11世紀後半の中近東情勢”

西欧諸国とイスラム諸国の間には東ローマ帝国が存在していた。 東ローマ帝国はキリスト教国ではあったが、世俗権力の下に正教という別の教派が置かれ、カトリック教会と北地中海沿岸の旧ローマ帝国支配域を二分していた。 皇帝アレクシオス1世コムネノスの下で、帝国は西にカトリック教国群と隣接し、東にイスラム世界と接していた。 さらに北からはスラブ人の圧迫も受けていた。 アレクシオス1世はイスラム教徒に奪われた古来からの領土である小アジア(アナトリア半島)の奪還を悲願としていた。

当時のイスラム諸国は互いに争い、またセルジュークは内紛の真っ只中にあった。 アナトリア半島とシリアは、チュウオウアジア・イラン高原を本拠地とする大帝国・セルジューク朝によって治められていた。 しかし、この時代には地方政権が割拠する分裂の時期を迎えていた。 かつて 東ローマ帝国軍を破りアナトリアを支配下におさめた。 しかし、1092年に次代スルタンのマリク・シャーが亡くなると、セルジューク朝は内紛続きで分裂状態になっており、セルジューク系の各地方君主たちは互いに相手の隙につけこんでは戦う情勢だった。

名義上はセルジューク朝の版図の一地方でありながら、実質的にセルジューク家の一族によってばらばらに支配されていたのがジャズィーラとパレスチナであった。 一方、パレスチナはエジプトを主な領土とするシーア派のファーティマ朝が統治していた。 ファーティマ朝は台頭してきたセルジューク朝にシリアとパレスチナを奪われて以来争いを繰り返しており、ファーティマ朝と対セルジュークで連携を取っていたアレクシオス皇帝は、十字軍にエルサレム攻撃にあたってファーティマ朝と手を組むよう勧めていた。 ムスタアリーに率いられていたファーティマ朝はセルジューク朝によって1076年にエルサレムを奪い取られ、キリスト教世界の援軍を利用して旧領の奪回を画策していた。

ムスタアリーを筆頭に、ファーティマ朝の執政者たちは、パレスチナ地方は西欧からやって来る十字軍によって解放されると信じていた。 エルサレム占領を目指すという十字軍の意図に気づかず、エルサレムに到着する寸前までセルジューク朝そのものを攻撃に来るものとばかり信じ、考えていた。=

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 ===== 続く =====

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