十字軍とテンプル騎士団=03=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦友たち = 第一部“十字軍  ❢❢❢

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◇◆ 諸侯による十字軍活動 ◆◇ 

 蛇足ながら、十字軍運動の盛り上がりは、反ユダヤ主義の高まりという側面をもたらすことにもなった。 ヨーロッパでは古代以来、反ユダヤ人感情が存在していたが、十字軍運動が起こった時期には頻繁にユダヤ人共同体に対する組織的な暴力行為が行われた。 十字軍の熱狂が始まったばかりの1096年の夏、説教師に率いられた1万人のドイツ人たちは、ライン川周辺でユダヤ人の殺害を行った。 この事件を逃れたドイツのユダヤ人は、宗教に寛容なポーランド王国へ逃げ込んだ。 ポーランドには以前から多くのユダヤ人が各地に住んでいたが、キリスト教徒との間で特筆すべきほどの大きな軋轢はなかったのである。

十字軍運動に参加した人々は、ユダヤ人とイスラム教徒はみなキリストの敵であるといい、敵はキリスト教に改宗させるか、剣を取って戦うかしなければならないと訴えた。 聴衆にとって「戦う」というのは、相手を死に至らしめることと同義であった。 カトリック教徒対異教徒という構図が出来上がると、一部の人々の目に身近な異教徒であるユダヤ人の存在が映った。 なぜ異教徒を倒すためにわざわざ遠方に赴かなければならないのか、ここに異教徒がいるではないか、しかもキリストを十字架につけたユダヤ人たちが、というのが彼らの考えであった。 以来 第二次世界大戦終了まで約一千年間のユダヤ排斥運動が欧州で続いたのである。

十字軍運動の盛り上がりの中で、民衆十字軍が壊滅したが、その後に続いたのは1096年夏にヨーロッパを出発した貴族や諸侯による軍事行動であった。 このグループがいわゆる十字軍の本隊であり、西欧各地の多数の諸侯が集まって聖地を目指した聖地奪回への軍事行動であった。 昨年(1095年)にローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言していた。 この呼びかけにこたえた騎士たちがエルサレム遠征の軍を起こしたのである。

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 諸侯と騎士からなる十字軍本隊は、計画通り1096年8月にヨーロッパを各自出発し、ゴドフロワ・ド・ブイヨンらはハンガリーからブルガリアを経由、ユーグ・ド・ヴェルマンドワやノルマンディー公、フランドル伯らはイタリアからアドリア海を渡り、ギリシャを東西に横断した。 彼らは12月にコンスタンティノープルの城壁外に集結したが、それは民衆十字軍壊滅の2ヶ月後のことであった。 この本隊にも騎士だけでなく、必要な装備にも事欠く多くの民兵が付き従っていた。 民衆十字軍の壊滅から生還した隠者ピエールも、民衆十字軍の生き残りの人々と共にこの本隊に合流したが、再び雑兵の統率者に祭り上げられた。 民兵は小グループに再編成されて行動した。

なんとかコンスタンティノープルにたどりついた十字軍将兵はすでに食料が乏しかったが、武装した軍隊が要求すれば東ローマ帝国・皇帝アレクシオス1世から食料が提供されるものと考えていた。 しかし、アレクシオス1世はまったく統制のとれていない民衆十字軍を見ていたことや、軍勢の中に南イタリアを奪った宿敵であるノルマン人のボエモンがいたため猜疑心を抱き、指導者層に向かって、食料を提供する代わりに、自分に臣下として忠誠の誓いを立て、さらに占領した土地はすべて東ローマ帝国に引き渡すことを誓うよう求めた。 十字軍指導者層と皇帝の間でギリギリの駆け引きが続けられ、武器を取っての小競り合いにまでなったが、なんとか双方が妥協に至った。

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 諸侯と騎士からなる十字軍本隊は、計画通り1096年8月にヨーロッパを各自出発し、ゴドフロワ・ド・ブイヨンらはハンガリーからブルガリアを経由、ユーグ・ド・ヴェルマンドワやノルマンディー公、フランドル伯らはイタリアからアドリア海を渡り、ギリシャを東西に横断した。 彼らは12月にコンスタンティノープルの城壁外に集結したが、それは民衆十字軍壊滅の2ヶ月後のことであった。 この本隊にも騎士だけでなく、必要な装備にも事欠く多くの民兵が付き従っていた。 民衆十字軍の壊滅から生還した隠者ピエールも、民衆十字軍の生き残りの人々と共にこの本隊に合流したが、再び雑兵の統率者に祭り上げられた。 民兵は小グループに再編成されて行動した。

なんとかコンスタンティノープルにたどりついた十字軍将兵はすでに食料が乏しかったが、武装した軍隊が要求すれば東ローマ帝国・皇帝アレクシオス1世から食料が提供されるものと考えていた。 しかし、アレクシオス1世はまったく統制のとれていない民衆十字軍を見ていたことや、軍勢の中に南イタリアを奪った宿敵であるノルマン人のボエモンがいたため猜疑心を抱き、指導者層に向かって、食料を提供する代わりに、自分に臣下として忠誠の誓いを立て、さらに占領した土地はすべて東ローマ帝国に引き渡すことを誓うよう求めた。 十字軍指導者層と皇帝の間でギリギリの駆け引きが続けられ、武器を取っての小競り合いにまでなったが、なんとか双方が妥協に至った。

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 クルチ・アルスラーン1(ルーム・セルジューク朝)はニカイアヲ離れ、アナトリア高原のマラティヤ(メリテネ)で領内制圧の指揮を執っていた。 当地でダニシュメンド朝の王・賢者ダニシュメンド王と戦っていたが、重武装の大軍が首都を包囲していると聞き、あわてて引き返し戦うものの、多大な損害を出したため、城内に立て篭もるビザンツ人住民やテュルク人守備隊に東ローマ帝国への降伏を薦め、内陸深くのコンヤ(イコニウム)への退却を決めた。 この状況を伝え聞いた東ローマ帝国皇帝・アレクシオス1世は、十字軍がニカイアを陥落させた場合は略奪を行うに違いないと考え、ひそかに使者を派遣してニカイアの指導者に降伏するよう交渉を行った。 守備隊は説得され、住民らは夜ひそかに東ローマ兵を城に入れたのである=ニカイア攻囲戦=。

1097年6月19日の朝、街を囲んでいた十字軍将兵は目覚めて仰天した。 城壁に東ローマ帝国の旗がひるがえっていたからである。 この出来事は、十字軍と東ローマ帝国の関係に修復できない亀裂をもたらした。互いの不信感が決定的になったのである。 十字軍はニカイアを離れ、一路エルサレムを目指した。 東ローマ帝国軍は十字軍の道案内をしながら、アナトリアの西半分の領土を、分立するセルジューク系諸侯国から回復していった。 一方、クルチ・アルスラーン1世はコンヤで軍勢を立て直し、セルジューク系諸侯に救援を呼びかけたが救援は無かった。 後年に、彼は“1101年の十字軍”に対してはよく戦い、東ローマ帝国と連合していく。

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===== 続く =====

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