十字軍とテンプル騎士団=05=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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❢❢❢ アンティオキア攻囲戦  ❢❢❢ 

☛ ☞   “アンティオキア攻囲戦” ; アンティオキアはかつてセレウコス朝およびローマ帝国のもとで東地中海随一の大都会として繁栄した街であり、中世にはウマイヤ朝東ローマ帝国が争奪する前線の都市となって荒廃に向かったものの、6世紀の皇帝ユスティニアヌス1世が築いて以来の難攻不落の城壁で知られる重要都市であった。 城郭都市は、西はオロンテス川に面し、南は急な谷間に守られ、東はハビーブン・ナッジャル山(シルピウス山)の頂にまで城壁が登っており山頂には城砦を構えているという攻めるに難く守るに易い構造であった。

1085年にはセルジューク朝がアンティオキアを東ローマ帝国から奪った。 この時は内部からの裏切りによって入城に成功したため、再建・強化されたばかりの城壁は無傷のままであった。 1088年以来アンティオキアの統治にあたっていたのはヤギ=シヤーン(Yaghi-Siyan)という人物であった。 ヤギ=シヤーンは1097年の春から夏にかけてアナトリア半島を進んできた十字軍に注目していたシリア地方の数少ない領主で、近隣のセルジューク系ムスリム政権に救援を呼び掛けたがどこからも返事がなかった。 有力な勢力には、ダマスカスのシリア・セルジューク朝の王ドゥカーク(Duqaq)と、ドゥカークとは仲の悪い兄弟でありシリア・セルジューク朝を分裂させて戦っているアレッポの王リドワーン(Ridwan)があったが、彼らは決して共闘しようとはしなかった。

十字軍を迎え撃つに当たって、ヤギ=シヤーンは市内に多数住むキリスト教徒が十字軍に呼応するのを恐れ、正教会のイオアンニス7世を捕らえ、ギリシャやアルメニアの正教徒を城外に追放したが、シリア正教会の信徒たちは留まることを許された。

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☛ ☞  “十字軍の到着” ; 十字軍は1097年10月20日、アンティオキア城外のオロンテス川河畔に姿を現した。 当時、十字軍の指導者とみなされていた人物にはゴドフロワ・ド・ブイヨン(前節参照)、タラント公ボエモン(前節参照)、トゥールーズ伯レーモン(前節参照)らがいたが、この3人はアンティオキアをどう攻撃すべきかで見解の相違があった。 レーモンはアンティオキアの城壁を直接攻撃することを主張したが、ボエモンとゴドフロワはじっくりと攻囲戦に取り掛かることを主張した。 レーモンはしぶしぶ同意し、翌10月21日に攻囲戦を開始したが、十字軍の兵力ではアンティオキアの城壁を完全に包囲することはできなかった。

東ローマ帝国が築いた城壁は直接攻撃に耐えうる堅固なものであったが、城内のヤギ=シヤーンの側には直接攻撃された場合に必要な兵力は揃っていなかった。 このため、十字軍が直接攻撃でなく攻囲戦にかかったのを見てヤギ=シヤーンは胸をなでおろした。 ボエモンは市の北東角の「聖パウロ門」に宿営を張り、レーモンはさらに西の「犬門」の前に、ゴドフロワはやはり西の「公爵門」(オロンテス川を渡りタレンキ村に至る舟橋がある)の前に陣を張った。 南の「二人姉妹の塔」、北西角の「聖ゲオルギオス門」には十字軍の包囲が及ばず、攻囲戦の間中、これらの門は城内への補給に使用され続けた。東の山頂の城塞と「鉄門」は万一の場合の籠城の場所であった。

☛ ☞  “第一回攻囲戦” ; 11月半ばには、ボエモンの甥のタンクレード(前節参照)が増援に現われた。 またジェノヴァ共和国の船団がアンティオキア付近の聖シモン港に入港して多数の食糧や補充品を運び込んだ。 攻囲戦は思いのほか長引き、12月にはゴドフロワが病に倒れ、充分だったはずの食糧も近づく冬を前に底をつき始めた。 12月末、ボエモンとフランドル伯ロベールは2万人ほどの兵を引き抜き糧食徴発のために南に向かった。 包囲する兵力が少なくなったことを見抜いたヤギ=シヤーンは、12月29日に聖ゲオルギオス門から出撃し、川向こうのタレンキ村にあったレーモンの宿営に突撃を仕掛けた。

レーモンはこれを撃退することはできたものの城内に突入することはできなかった。その間、ボエモンとロベールの軍は、アンティオキア救援にやってきたダマスカスのシリア・セルジューク朝の王ドゥカークの軍と衝突していた。 十字軍側はこの戦いには勝ったが、食糧を充分略奪・徴発できないままアンティオキアに引き返さざるを得なかった。 12月は双方にとって不吉な出来事が起こったまま過ぎていった。 12月30日には地震があり、それから数週間は寒冷な気候と季節はずれの豪雨に襲われた。 十字軍は地震におののき、ドゥカークも地震や悪天候のため十字軍とはそれ以上戦わずしてダマスカスへ帰っていった。

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☛ ☞  “飢餓” ; 食糧不足のため、アンティオキアを包囲する十字軍の宿営内では飢餓が発生し、人間も馬もばたばたと死んでいった。 全軍で7人のうち1人は飢えで死に、軍馬は700頭しか残らなかった。 民衆十字軍(前節参照)の生き残りであり隠者ピエールに率いられて陣営にいた特に貧しい兵士たちのうちから、死んだ敵兵の死体を食べる人肉食に走る者が現われた。 騎士らのうちにはあえて飢えを耐えようとする者もあった。 しかし多くは馬の死体などを食べている。 シリアのキリスト教徒や、追放されてキプロス島にいたエルサレム総主教・シモンらは十字軍へ食糧を送ろうとしたが、これも飢餓を和らげることはできなかった。 年が明けた‘98年一月には、騎士や兵士の中から脱走者が出始める。 その中には隠者ピエールもおり、すぐさま発見されてタンクレードによって宿営に連れ戻されている。 十字軍に参加した兵や民衆から崇拝されていた彼の権威は、ここに来て地に墜ちたのである。

☛ ☞  “タティキオスの離脱” ; 2月に入ると、東ローマ帝国の将軍で、皇帝の特使として十字軍に付いて助言やアナトリア半島の道案内などを行ってきたタティキオスが、突然十字軍の宿営を離れた。 十字軍はタティキオスの助言を聞くのを拒み続けており、ボエモンはタティキオスに、「他の十字軍諸侯らの間には貴君が秘密裏にセルジューク側を助けているという説があり殺す計画もある」と打ち明けていたと言う。 一方でボエモンは、タティキオスは裏切ったか、臆病になって敵前逃亡したのだと主張し、アンティオキアを東ローマ帝国に返還するという義務はもはや守らなくて良くなったと公言した。

更には、ボエモンは、アンティオキア陥落後にアンティオキアを自分の領地とする許しが下りないならば自分も陣営を離れると言い始める。 タティキオスに対して暗殺の陰謀があるなどと打ち明けて陣営を離れることを勧めたのは、おそらくアンティオキア領有を主張するための策略であったのだろう。 ゴドフロワとレーモンはボエモンの脅しを相手にしなかったが、下級騎士や兵士らの間ではボエモンを支持する声が広がっていく。 この間、ヤギ=シヤーンは近隣のムスリム政権へ救援を求め続けており、アレッポからリドワーン率いる軍勢が到着した。 しかし この軍勢も2月9日にアンティオキア近郊のハリムでドゥカーク同様に十字軍に破れ、アンティオキアを助けないまま退却していった。

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 ===== 続く =====

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