十字軍とテンプル騎士団=06=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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❢❢❢ アンティオキア攻囲戦  ❢❢❢ 

☛ ☞  “補給と砦の建設” ; 3月、イングランド王位を主張していたエドガー・アシリング率いるイギリス船団が、エドガーの亡命先であるコンスタンティノープルから聖シモン港へと到着した。 彼らは攻城兵器構築用の木材など補給物資を多数運び込んだが、3月6日にレーモンとボエモンの軍勢が補給物資とともに海岸からアンティオキア城下に戻る途中(彼らは互いに、相手が単独で補給物資を運べるとは信用していなかった)、ヤギ=シヤーンの守備隊の別働隊に襲われてそのほとんどを失った。 ゴドフロワの援軍の到着で別働隊は撃退され残った補給物資は確保された。 エドガーは皇帝アレクシオス1世コムネノスから船団や資材などの提供を受けていたが、十字軍はこれを東ローマ帝国による直接の援助とは考えなかった。

十字軍は資材を使い攻城塔を組み立て始めたほか、「ラ・マオメリー」と名付けた砦も築いた。 この砦でアンティオキア市の「橋門」を塞ぐことにより、ヤギ=シヤーンの軍勢が城外へ出て聖シモン港やアレクサンドレッタ港から十字軍への補給路を襲うことを防ごうとしたもので、レーモンがこの砦に兵を置いた。 また、城内への補給物資の搬入口となっている聖ゲオルギオス門に対しては、すぐそばの放棄された修道院を修復して砦とし、タンクレードが兵を置いた。年代記ではこの修道院跡はタンクレードの砦と呼ばれている。 こうしてようやく十字軍はアンティオキアの封鎖にある程度成功する。 春が近づくにつれ十字軍の食糧事情も好転した。

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☛ ☞  “ファーティマ朝の使者” ; 4月、エジプトのファーティマ朝からの使者が十字軍の陣営に到着した。 彼らは、十字軍との和平を締結し、共通の敵であるセルジューク朝に対する挟撃を行うことを求めていた。 アラビア語に堪能な隠者ピエール(前節参照)が交渉に当たった。 しかしながら、交渉は成り立たなかった。 ファーティマ朝は、十字軍は東ローマ帝国の傭兵のようなものと考えており、もしファーティマ朝の領土であるパレスチナに攻め込まないと合意すれば、十字軍がシリアを領有することを認める準備があった。 しかし十字軍はエルサレム領有につながらないどのような案も受け容れようとはしなかった。 決定的な合意には達しなかったものの、ファーティマ朝の使者は良い待遇を受け、3月に十字軍がヤギ=シヤーンの軍から奪った品物などを土産として持たせたのである。

☛ ☞  “アンティオキアの陥落” ; 包囲戦はなおも続いた。 1098年5月末、北メソポタミヤのモースルの領主だったケルボガはヤギ=シヤーンの救援に応じ、大軍を率いてアンティオキアに向かった。 これは、それまでのどの援軍よりもずっと大きな規模であった。 ケルボガはディヤール・バクルのアルトゥク家の軍勢やペルシャの軍勢も率いており、途中でダマスカスのドゥカークやアレッポのリドワーンの軍とも合流した。 しかしケルボガ率いる軍はなかなかアンティオキアに着かなかった。 彼は途中で十字軍に占領されたエデッサ(エデッサ伯国)に向かい、3週間ほど攻城戦をしたものの、落とすことができなかった。 ケルボガのこうした寄り道により、迎え撃つ十字軍には時間の余裕が生まれた。

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 ケルボガの大軍は、兵力に劣る十字軍にとっては非常に脅威的であった。 十字軍は、どのような手を使ってでも必ず、ケルボガの大軍が来る前にアンティオキアを落とさねばならないことを理解していた。 ボエモンは、アンティオキアの「二人姉妹の塔」の守備責任者であったアルメニア人衛兵フィルーズと密かに連絡を取ることに成功した。 フィルーズはヤギ=シヤーンに憎悪を抱いていたため、ボエモンからの賄賂の申し出に応じて門を開けることを約束した。 ボエモンは他の十字軍指導者らに対し、もし戦後アンティオキアを領有することを認めてくれるなら、他の者もフィルーズが開けた門を通ってアンティオキア市内に入ってよいと申し出た。 レーモンは怒り、1097年にコンスタンティノープルを発つときに約束したとおり、陥落させた町は全て皇帝アレクシオスに引き渡すべきではないのかと主張した。 しかし、ゴドフロワ、タンクレード、ロベールら他の諸侯は、ケルボガ軍接近という不利な状況にあることからボエモンの要求を呑んだ。

☛ ☞  “第二回攻囲戦” ; 6月2日、長引く包囲戦に耐えかねたブロワ伯エティエンヌ(前節参照)らが、ついに陣営を出て十字軍を離脱し、タルスス方面に戻ってしまった。 しかしこの同じ日、ボエモンらによる市内潜入が始まろうとしていた。 フィルーズはボエモンに、近くまで迫っているケルボガに面会するふりをして行軍に出てアンティオキア城内の守備隊を油断させ、そのまま夜にアンティオキアに戻ってきて城壁にはしごをかけて登るよう指示した。 同日夜、潜入は成功した。 フィルーズは城門を開け放ち、たちまち十字軍が市内になだれ込み虐殺が始まった。 市内にいたキリスト教徒も呼応して他の城門を開け放ち、そのままテュルク人守備隊に対する虐殺に加わった。 しかし十字軍はムスリムの市民だけでなくキリスト教徒の市民に対しても虐殺を行った。 犠牲者の中にはフィルーズの兄弟も含まれていた。 ヤギ=シヤーンは混乱に陥ったアンティオキアを脱出したが、市外でシリア人キリスト教徒に捕まり、断首され、その首はボエモンの元に届けられた。

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 6月3日が終わるころには、十字軍は市内のほとんどを制圧していた。 しかし、山頂にある城塞だけはまだ落とすことができなかった。 城塞にはヤギ=シヤーンの息子シャムス・アッ=ダウラが立てこもり抵抗を続けていた。 教皇使節アデマールはイオアンニス7世を解放して再びアンティオキア総主教とした。 アデマールは、ボエモンがアンティオキア領有を主張する状況のなか、少しでも正教会や東ローマ帝国との関係を良好に保とうとした。 しかし城内は食糧不足であり、ケルボガ軍も近くに迫っていた。ケルボガはアンティオキア陥落の2日後である6月5日になってようやくアンティオキアに到着した。 彼は6月7日、城内への突入を試みるが難攻不落の城壁に跳ね返された。 ケルボガは戦法を攻囲戦に切り替え、翌日の6月9日までに十字軍が立てこもるアンティオキア市に対する包囲を完成させた。 こうして十字軍は逆に攻囲戦を仕掛けられる側になってしまった。

城内の十字軍のうち多数がケルボガ軍が到着するまでにアンティオキアを脱走し、タルススにいたブロワ伯エティエンヌらに合流した。 エティエンヌらはアンティオキアに引き返し、ケルボガ軍が市を包囲して近くに陣営を張っているのを見て、もう城内の十字軍に望みは無いと考えた。 他の脱走兵らもこれを確認した。 コンスタンティノープルに戻る途中、ブロワ伯エティエンヌほか十字軍脱走者は、十字軍支援のために首都を出てきた皇帝アレクシオス1世コムネノスの軍に出あい、皇帝に面会した。事情を知らない皇帝は十字軍の現況を尋ねたが、エティエンヌは他の十字軍将兵はみな戦死したと説明した。皇帝アレクシオスは自らの偵察兵からもアナトリア半島に他のセルジューク軍が迫っていると聞き、戦いを避けるためにコンスタンティノープルへ引き返した。

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===== 続く =====

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