十字軍とテンプル騎士団=07=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆ アンティオキア攻囲戦  ◆◇ 

☛ ☞  “聖槍の発見” ; そのころ包囲されたアンティオキアでは、6月10日、一行の中にいたペトルス・バルトロメオという貧しい修道士が諸侯らの前に進み出た。 彼は聖アンデレを幻視し、「この市内に聖槍がある」という言葉を受け取った、と主張した。 飢える十字軍の一行の中には聖人を幻視したり幻覚を見たりする者も多く、ヴァランスのステファヌスという修道士はイエス・キリストと聖母マリアを幻視したと報告した。 6月14日には流星が敵陣のほうに落ちるのが見え、吉兆と解釈さる。 教皇使節アデマールは聖槍や幻視などには懐疑的で、特に聖槍をコンスタンティノープルで見たばかりだったのでアンティオキアで見つかるなど笑止千万と考えた。

しかし、レーモン(前節参照)はペトルス・バルトロメオの言葉を信じた。 レーモンをはじめ、年代記作者レーモン・ダジール、オランジェ司教ギヨームらは6月15日から市内の聖ペテロ聖堂の地下を掘り始めた。 何も見つからず徒労かと思われたそのとき、ペトルス・バルトロメオは自ら穴の中に入り、底に降り立つと、土の中から槍の先を取り出して見せた。 レーモンはこれを聖槍だと信じ、この事態で聖遺物が発見されたのは、降伏するよりも包囲を生き延びて最後の戦いに備えよという神のしるしに違いないと考えた。 ペトルス・バルトロメオはさらに別の幻視を見たと報告した。 それは聖アンドレが十字軍に5日間の断食を行うことを指示し、そうすれば十字軍は大勝利を収めるだろう、という内容だった。 ボエモン(前節参照)も聖槍発見には懐疑的だったが、その発見の知らせが十字軍将兵の士気を高めたことは疑いようが無かった。

ケルボガの宿営に放ったスパイからは、陣営内では言い争いが絶えないという報告もあった。 リドワーンやドゥカークといったシリアの領主たちには、モースルから来たケルボガが、戦いに勝った後でシリアでの権利をより一層主張してくるのではないかとの疑念があった。 シリアの領主たちにとってケルボガは、得体の知れない西洋人侵略者とは違い、より現実的な脅威であった。

6月27日、隠者ピエールはボエモンの使者としてケルボガの陣営に赴いた。 しかし交渉は成果無く終わり、セルジューク軍との戦いはもはや避けがたいものと感じられた。 ボエモンは十字軍を6つの分隊に分けた。 彼はそのうちの1つを直接指揮し、残る5つは、ユーク・ド・ウェルマンドワとフランドル伯ロベールの分隊、ゴドフロワ・ド・ブイヨン(前節参照)の分隊、ノルマンディー公ロベール(前節参照)の分隊、タンクレード(前節参照)およびベアルン子爵ガストンの分隊、ル・ピュイのアデマール(前節参照)の分隊であった。 そのころ病気に倒れていたレーモンは200人ほどの兵士と共に市内に残り、山頂の城塞に対する守備を行うことにした。 山頂の城塞は、シャムス・アッ=ダウラから、ケルボガの派遣した武将アフメド・イブン・メルワーンへと引き渡されていた。

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☛ ☞  “アンティオキア城外の戦い” ; 6月28日月曜日、十字軍の将兵は、聖槍をかかげるレーモン・ダジールを先頭に、城門から城外へと突撃した。 ケルボガにとっては城門を出る兵を個別撃破する機会であったが、部下の将軍たちは、攻撃すると後続の兵がまた城内に戻ってしまう、個別に叩くよりも十字軍全軍が出たあとに大軍で一気に片をつけよう、と主張し、ケルボガもこれに反対することは避けた。 しかしケルボガらは、十字軍の規模を実際よりも少なく考えており、城外に出た十字軍全軍が思いのほか多かったことに気付く。

ケルボガ軍の弓兵や弓騎兵らは十字軍の騎士らに盛んに弓矢を浴びせた。 ケルボガは退却を装って十字軍を不利な地形におびき寄せようとした。 十字軍の左翼は川に守られていなかったため、ケルボガは分隊を出して攻撃を仕掛けたが、ボエモンはすぐさま7つ目の分隊を組織し、敵分隊を背後から撃破した。 テュルク連合軍は十字軍に大きな損害を与え、アデマールの軍旗を持っていた兵士など多くが倒れた。 ケルボガは自軍と十字軍の間の草地に火を放ったが十字軍はこれにひるまなかった。 十字軍は聖ゲオルギウス等、3人の聖人が彼らと共に騎馬で進軍する幻を見たという。

戦いは短時間であった。 十字軍がケルボガのいる戦列にたどり着く前に、ダマスカス王ドゥカークらは相手が多すぎると次々に逃亡してゆき、連合軍は崩壊状態となった。 これによりケルボガの軍は人数での優位を失い、ケルボガも撤退を強いられる羽目になった。こうしてムスリムの連合軍は十字軍の前に敗北した。

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☛ ☞  “戦いの後” ; ケルボガらの軍勢が去った後、アフメド・イブン・メルワーン率いる城塞の軍勢もついに降伏した。 ただしボエモン個人に対しての降伏で、レーモンらに対しての降伏ではなかった。 これはレーモンらが知らないうちに示し合わせての降伏であった。 かねてからの公言どおりボエモンはアンティオキア市の領有を主張し、反対するアデマールやレーモンと対立した。 ユーグ・ド・ヴェルマンドワとエノー伯ボードゥアンはコンスタンティノープルへアレクシオス1世の援軍を要請するために使いに出されたが、ボードゥアンはアナトリア半島の道中で伏兵にかかり、そのまま行方不明となっている。

アレクシオス1世は、援軍要請に対し、アンティオキアの領有を宣言するための軍勢の派遣に興味を示さなかった。 ボエモンは、アレクシオス1世は十字軍を見捨てたと主張し、皇帝に対する誓いは全て無効になったと議論した。ボエモンとレーモンはヤギ=シヤーンの宮殿を共有していたものの、市街のほとんどはボエモンの支配下にあり、山頂の城塞にはボエモンの軍旗がはためいていた。 この不仲は、北フランスのフランク人、南フランスのプロヴァンス人、南イタリアのノルマン人という十字軍を構成する諸侯は、それぞれ別々の民であるという意識を持っており、それぞれが自らの地位を高めようと行動したためか、それとも、諸侯それぞれの個人的な野心に原因を帰するものであったのか・・・・・・・・。

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 十字軍の進軍はアンティオキアで止まったままとなった。 陥落後のアンティオキアではチフスと見られる疫病が蔓延した。 8月1日には対立する諸侯のまとめ役だった教皇使節アデマールが病没し、十字軍は指導者不在の状態になりつつあった。 9月に入ると諸侯はローマ教皇ウルバヌス2世に対してアンティオキアの支配を頼む書簡を送っているが、教皇はこれを断っている。 1098年の夏以降、十字軍はアンティオキア近郊の農村地帯を支配下に置いたものの、もはや軍馬の数は少なくなっており、ムスリムの農民たちも食糧の提供を拒んだため、飢餓が十字軍内に広がった。

弱小騎士や兵士らは次第に落ち着かなくなり、争う諸侯を残して自分たちだけでエルサレムへ向かうぞと脅し始めた。 11月には巡礼者らがエルサレム行きを求めて、会議中の諸侯たちを突き上げる事件も起きている。さらに同じく11月から12月にかけて、十字軍が小都市マアッラを攻囲戦で陥落させた後、住民を殺戮して鍋で煮たり串で焼いたりという人肉食を行う出来事も起こっている。 11月、レーモンは平穏に十字軍を進めるため、また叛乱を起こしかねない飢えた兵士らをなだめるため、ついにアンティオキア支配を言い張るボエモンに屈してしまった。 こうして1099年1月、晴れてアンティオキア公国初代公爵となったボエモンを後に、レーモンに率いられた十字軍は南への進軍を再開した。 十字軍はファーティマ朝の領内に入り、同年6月、十字軍はエルサレム攻囲戦に取り掛かるのである。

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 ===== 続く =====

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