十字軍とテンプル騎士団=08=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆  エルサレム攻 囲戦  ◆◇ 

1098年6月終わり、トゥールーズ伯レーモン(前節参照)(レーモン・ド・サン・ジル)やタラント公ホエモン(前節参照)に率いられた十字軍は、半年以上にわたったアンティオキアの激戦に勝利を収めた。 十字軍はこの後、炎天下の行軍を避けるためとしてエルサレムへ直ちに向かわずアンティオキアに留まり、さらに秋を越えて冬までシリア北西部に残ることになる。 兵糧が問題であった。 彼らはこの問題解決のために、前進を中断してする。 その間、近隣の農村などを襲い食糧を徴発した。 十字軍は補給線を築いて防衛することが得意ではなく、このため軍内において飢餓や装備の不足などが広範囲に発生することになった。

アンティオキア陥落直後の1098年7月、騎士でレーモン・ド・サン・ジルの部下のレーモン・ピレが、兵士の一団を率いて食糧徴発の遠征に出て、アンティオキアから南のダマスカスへの街道上にある城郭都市マアッラを襲った。 彼らはマアッラに駐屯するはるかに大人数のムスリム軍と戦い、多数の犠牲を出した上、戦利品などすべてを奪われた。 夏の間、アンティオキア南方の小さな町を多数襲った十字軍は、秋も深まった11月に再びマアッラを襲った。

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☛ ☞   “マアッラ攻囲戦” ; 
11月終わりごろ、レーモンとボエモンに率いられた数千人からなる十字軍がマアッラの包囲を開始した。 最初のうち、マアッラ市民はみじめに撃退されたレーモン・ピレらの部隊との戦いの経験から、十字軍の勢力を甘く見ていた。 これに対し今回の十字軍は本隊といえる規模のものだったが、十字軍側も冬を迎えた上に食糧が少なく、長い攻囲戦を戦い抜くだけの力は無かった。 また強い城壁と深い堀を巡らしたマアッラの町の守りを破ることができなかった。

都市民による民兵や戦いの経験の無い住民らからなる町の守り手は、十字軍による包囲を2週間ほど耐え抜いた。 その間に十字軍は攻城塔を構築して城壁の上に兵士を渡そうとし、同時に町の反対側の手薄な城壁にはしごを掛けて騎士らを登らせ始めた。 十字軍は戦闘の末、12月11日にマアッラの城壁上を占領し、市民らは市内に引き揚げ、十字軍は市内への突入をひとまず待った。 双方はその夜、翌日の戦いに備えて休息に入ったが、十字軍のうち貧しい兵士らが市内に乱入して略奪を始めた。 そして、12月12日の朝、守備兵は十字軍の指揮官の一人であるボエモンと交渉に入り、降伏すれば安全を保障するという約束を引き出した。 ムスリムの民兵や市民たちは降伏したが、たちまち十字軍により虐殺された。 ボエモンは町の城壁と塔を掌握していたが、市内はもう一人の指揮官であるレーモンが掌握していた。 二人は仲が悪く、マアッラ全体を誰が占領するかで言い争いを続けており、指揮系統は機能せず、ボエモンと守備隊の交わした降伏の条件はレーモンの部下らのもとには届かなかった。

攻囲戦後、十字軍はマアッラの城壁を壊し始める。 一方、兵士らはレーモンに対してエルサレムへの一日も早い行進を主張し、ボエモンや諸侯との争いを延々と続けるレーモンを突き上げた。 最後にはレーモンも折れ、他の諸侯から行軍への理解を得るための折衝を始めた。 エルサレムへの行進は翌1099年1月に再開された。 1月13日にはたいまつを手にした十字軍がマアッラの家々に火をつけて回り、城壁のみならず町も完全に破壊されたが・・・・・。

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☛ ☞   “人肉食” ; マアッラは十字軍の将兵が期待したほど豊かな町ではなく、略奪しても十字軍の食料や金品や装備の不足を補うことができなかった。 加えて冬も近づいていた。 レーモンらがエルサレムへの行軍再開の折衝をアンティオキアで続けている間、飢えた将兵はムスリムの市民の死体を食べ始めたと言う。年代記作家・カンのラウルが書いた『ゲスタ・タンクレーディ/ Gesta Tancredi』には《ある者によれば、彼らは食糧不足のためやむなく、異教徒の大人を鍋で煮て、子供は鉄串に突き刺してあぶり焼いて貪り食った。》 と記す。 シャルトルのフーシェも、『エルサレムへの巡礼者の事績/ Historia Hierosolymitana』でこの事件について次のように書く。 ・・・・・これを語るには身震いがする。わが民の多くが、あまりにも過酷な飢えによる狂気にさいなまれ、死んでいるサラセン人たちから尻肉を切り取って刻み調理をした。しかしまだ肉に充分火の通っていないうちに、獰猛な口で貪り食ったのだ。・・・・・・また、エクスのアルベールも、《キリスト教徒は殺したトルコ人やサラセン人を食べるに躊躇しなかったのみならず、イヌまで食べた/ Nam Christiani non solum Turcos vel Sarracenos occisos, verum etiam canes arreptos(…) ラテン語)と書く。

☛ ☞   “十字軍の分裂” ; 1098年6月にアンティオキア攻囲戦を成功裏に終えたものの、十字軍は半年以上アンティオキア周辺のシリア北西部から先に進まなかった。 対立する諸侯同士をまとめる役を担ってきた教皇使節アデマールはアンティオキア陥落後に蔓延した疫病で没し、次の行動をどうすべきかをめぐる諸侯の際限ない諍いを止める者も、行軍の指揮を執る者もいなくなった。 タラント公ホエモン(前節参照)は自分がアンティオキアを領有すると言い張り、ブーローニュのボードゥアンはエデッサを占領したまま出てこなくなった。 十字軍はアンティオキア周辺の農村や小都市を襲うばかりで、ボエモンらに不満を募らせていたトゥールーズ伯レーモン(レーモン・ド・サンジル)も1098年冬にマアッラ攻囲戦でマアッラを落としたが、貧しい騎士や歩兵や非戦闘員らは、いつまで経ってもエルサレムへ向かわないレーモンらを非難し、諸侯ら抜きで行軍を再開すると脅して突き上げた。

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 1098年12月末から翌1099年1月初めにかけて、ノルマンディー公ロベールとボエモンの甥のタンクレード(前節参照)が、諸侯の中でも裕福で奉仕に対する対価を払うことのできるレーモンの封臣となることに同意した。 一方、ゴドフロワ・ド・ブイヨン(前節参照)は、兄であるブーローニュのボードゥアンが占領したエデッサからの収入を得ていたため、レーモンの封臣になることを拒んだ。 ボエモンはアンティオキアにとどまりアンティオキア公となる道を選んだ。

1月5日、レーモンはマアッラの城壁を取り壊し、1月13日にはマアッラを焼き払って南への行軍を再開した。 レーモンは巡礼者の装束を着て裸足で歩み、ロベールとタンクレードが続いた。シリア内陸のオロンテス川渓谷を南下する間、大きな抵抗にはほとんど遭うことはなかった。諸都市のムスリム政権は争いを避け、十字軍に補給を行って早く通過してもらうことを望んでいたのであった。 レーモンは、ボエモンがアンティオキアを手中に収めたのと同様に、自分も領土を持ちたいと考え、地中海岸の富裕な港湾都市トリポリの占領を企てた。 しかしその前に、レーモンはその近くの内陸の町でトリポリに属するアルカ(レバノン)の攻略から行った。

一方ゴドフロワと、同じくレーモンの封臣となることを拒んだブランドル伯ロベールは、レーモンらとは別行動を取り、ラタキアに残っていた十字軍将兵らと2月に地中海沿いに南下を開始した。 アンティオキアのボエモンも一時は彼らとともに行軍したがすぐにアンティオキアに引き返した。 タンクレードはレーモンとの原因の伝わらない諍いの後、レーモンの指揮下を離れてゴドフロワ一行に合流している。 ゴドフロワ一行に連動した別の分隊の指揮はベアルン子爵ガストンが執る。

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 ===== 続く =====

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