十字軍とテンプル騎士団=10=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

12-20-1

◇◆ エルサレム攻囲戦  ◆◇ 

アンティオキアの際と同じく、十字軍は攻城戦の準備を始めた。 しかしまたも食糧と水の不足に見舞われ、十字軍兵士は包囲される市民以上に、飢えや渇きに苦しんだ。 市内は攻城戦に備えて食糧の備蓄が進められていた反面、十字軍は郊外の農村の井戸が毒で使えなかった。 諸侯の十字軍に参加した騎士5,000人ほどのうちこの時残っていたのは1,500人ほどで、歩兵も30,000人ほどいたうち12,000人ほどが健康で残っているだけだった。 先般、レーモン率いる軍団を去りゴドフロワの軍団に合流していたゴドフロワ、フランドル伯ロベールとノルマンディー公ロベールらは市の北側をヤッファ門近くの城塞「ダビデの塔」付近まで包囲し、レーモンらは陣営を市の西側に置き、ダビデの塔からシオン山まで包囲していた。  6月13日に行われた城壁への直接攻撃は失敗に終わった。 水も食糧もなく、十字軍側では馬も人間もばたばたと死んでゆき、十字軍は不利を悟り始めた。

最初の攻撃が失敗したちょうどその時、ジェノヴァ共和国のガレー船2隻がヤッファ港に入港し、十字軍は当面の補給を行うことができた。 十字軍は同時に、サマリアから攻城塔を組み立てるための木材を徴発し始めた。 しかしなおも食糧と水は不足していた。 しかも6月末、十字軍はエジプトからファーティマ朝の軍隊が北に向かって行軍していることを知る。

絶体絶命の危機にあった十字軍の士気をよみがえらせたのは、ペトルス・デジデリウス(Peter Desiderius)という司祭が幻視を体験したという話をした時だった。 教皇使節アデマール(前節参照)の霊が彼のもとに現れ、ヨシュアがエリコの城壁を崩した故事にちなんで、3日間の断食の後、裸足で市壁の周りを行進すれば、9日以内に城壁は崩れると告げたのであった。 十字軍は3日間の断食を耐え、7月8日にエルサレム城外を巡る裸足の行進を行った。 聖職者がトランペットを吹きならし、兵士らが讃美歌を歌って歩く奇妙な光景に、エルサレムの守備兵は当惑し嘲笑った。 行進はオリーブ山で止まり、隠者ピエール(前節参照)、アルヌール、レーモン・ダジールらによる説教が行われた。

12-20-2

☛ ☞   “最後の攻撃とエルサレム制圧”

攻城戦の間、十字軍によって城壁に対する攻撃が何度となく行われたが、すべて撃退されていた。 グリエルモ・エンブリアコ(Guglielmo Embriaco)率いるジェノヴァ共和国の部隊は、ヤッファで乗ってきた船を解体し、その木材で攻城兵器を作り上げた。 攻城塔は城壁に近づき何度も攻撃を加えたが、イフティハール・アッ=ダウラ率いる守備隊は石油に硫黄を混ぜたギリシャ火を攻城塔に浴びせかけ、攻城塔やその上の兵士を炎上させる。 7月14日の夜にはジェノヴァ軍の攻城塔が城壁に近づき、守備兵を驚かせて注意を引いた。 翌7月15日の朝、守備隊が南側の城壁で攻城塔を焼き払っている頃、イフティハール・アッ=ダウラのもとに、もう一つの攻城塔によって北から市内に侵入されたという伝令が届いた。

12-20-3

 ゴドフロワの率いる攻城塔が、エルサレム市北東角の城門近くに接近して兵士を城壁に立たせることに成功したのであった。 フランドルのトウルネーの騎士レタルデ(Lethalde)とエンゲルベルト(Engelbert)の兄弟が城内一番乗りを果たしたという。 さらにゴドフロワ、その兄弟のブローニュ伯ウスタシュ、タンクレードらが部下とともに城内に突入した。 レーモンの率いる攻城塔は濠に足場を取られて進めなかったが、十字軍が市内北部から次々侵入しているという事態に、守備隊はレーモンに降伏して門を開けた。 イフティハール・アッ=ダウラら残された守備兵と市民は、市の西の要塞「ダビデの塔」に立て篭もって戦い続けたが、レーモンから降伏すれば助命すると勧告を受けた。 彼らは約束が破られるのではないかといぶかりながらもこれを受け入れ、結局約束通り無事にアスカロンへと脱出することを許さルガ、しかしその頃、すでに市内では市民に対する殺戮が始まっていた。

12-20-4

☛ ☞   “虐殺”

・・・・・・・・・ソロモンの神殿でも殺して斬っていった。神殿ではあまりにも殺した数が多かったので、われらの兵は足首まで血に浸かって歩いた…

・・・・・・・・神殿では1万人が殺された。たしかに、もしそなたがそこにおれば、そなたは我らの足はくるぶしまで殺した者らの血の色になっているのを見たであろう。しかしこれ以上何を語るべきであろう。彼らのだれも生き残らなかった。女も子供も容赦はされなかった。

・・・・・・・・異教徒たちが打ち負かされると、われらの兵は大勢を捕らえた。男も女もおり、彼らの望みに応じて殺したり捕らえたままにしたりした。

・・・・・・・・(我らの指導者は)すさまじい悪臭のため、サラセン人の死体をすべて外へ捨てるよう命じた。全市が死体で埋め尽くされていたためである。生き残ったサラセン人は死体を市門の出口の前まで引きずり、馬の死体ででもあるかのように積み上げた。誰も異教徒に対するこのような殺戮を見たことも聞いたこともなかった。死体の山々はピラミッドのように見え、死者の数は神のみぞ知ることであろう。しかしレーモンはエミール(総督)と、共にいた者たちについては、アスカロンへ無傷で逃げることを許した。

・・・・・・・・ムスリムの一団はミフラブ・ダウード(ダビデの塔)に立て篭もって数日間戦った。彼らは降伏の代わりに命は許された。フランクたちは約束を守り、夜にアスカロンへ出発させた。

ダマスカスの年代記作者イブン・アル=カラーニシ(Ibn al-Qalanisi、1070年-1160年)によれば、ユダヤ人の守備隊や市民はシナゴーグに逃げたが、フランク(西洋人)が建物ごと火を放ち、中の全員を焼き殺したと記述している。 更に、ある目撃者は、十字軍は燃え上がるシナゴーグを取り囲みながら「キリストよそなたをたたえる、そなたは我が光、我が導き、我が愛」と歌を歌って虐殺を繰り返す とも記述する。

12-20-5

 ===== 続く =====

前節へ移行 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/12/19/

後節へ移動 ; https://thubokou.wordpress.com/2015/12/21/

※ 本文下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

                         *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中