十字軍とテンプル騎士団=14=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆  “シグール1世の帰還  ◆◇

ヴァイキング気質のノルウェー十字軍はヘンリー一世の世話で冬季の間はイギリスに停泊し、春を待ってイベリア半島沖からジブラルタル海峡を通過し、地中海に入り イタリア・シシリアで歓迎されたのだが、その航海は略奪行為の繰り返しであった。 ノルウェー十字軍を率いるノルウェー王シグル1世(シグール)はこの後、1110年夏、イスラエル沿岸の良港・アッカーに到着した。 ノールウェーを離れて二か年半が過ぎていた。 第一回十字軍の指導者・ボードゥアン1世が建国した十字軍国家のひとつであるエルサレム国で歓待され、義理から近郊のイスラム教徒鎮圧にボードゥアン国王と戦場に赴いている。 エルサレムを離れたシグールと部下はキプロスへ航海し、ここで短期間滞在し、さらにギリシャへ向かいエンジリネス港を訪れる。

シグールはビザンチン帝国を訪れる際により好印象を与えるため帆をはらませる横風を待つためにこの地・エンジリネスに滞在し、その後にコンスタンティノープルに到着し、ノルウェー十字軍は「すべての土地の上に都市、城、小さな町がそれぞれ隙間なく乗っている」光景を目にした。 単一の巨大な帆で構成された船のように見せるためシグールの船の帆はたたまれた。 コンスタンティノープル中の住民がシグールの入港を物見しに来て、皇帝アレクシオス1世コムネノスは港を開けた。 シグールはノルウェーに戻る準備を整えるため、彼はすべての船首像と船を皇帝に差し出し、変わりに祖国までの帰路で利用する馬をもらった。 部下は多くがビザンチン帝国でヴァリャーグとして働かされることとなり、ビザンチンに残ることとなった。
シグールはその後恐らく3年程かけて、ブルガリアからハンガリー、パンノニア、シュヴァーベン、バヴァリアを旅し、そこで神聖ローマ帝国皇帝ロタール3世と面会した。 その後、デンマークにたどり着き、デンマーク王ニルスに迎えられ、ノルウェーへの航海のために船を与えられた。 ノールウェーに帰国したのは1113年、6年間のエルサレム巡礼であった。

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☛ ☞ “第1回十字軍の成功後

第1回十字軍は、エルサレム王国アンティオキア公国エデッサ伯国トリポリ伯国十字軍国家と呼ばれる国家群をパレスティナとシリアに成立させ、巡礼の保護と聖墳墓の守護という宗教的目的を達成した。 第1回十字軍が成功したことは、誰にとっても予想外な出来事だった。 君主層は西欧の安定によって失われていた武力の矛先を富み栄えた東方に見出し、占領地から得た略奪品によって遠征軍は富を得ることができた。また、十字軍国家の防衛やこれらの国々との交易で大きな役割を果たしたのはジェノヴァ共和国ヴェネツィア共和国といった北イタリアの都市国家である。 これらイタリア諸都市は占領地との交易を行い、東西交易で大いに利益を得た。 この活動に追随するように、“1101年の十字軍”や“ノールウェー十字軍”がエルサレムに向かった。

エルサレムから西欧に帰ってきた将兵たちは、英雄視された。 フランドルのロベール2世はエルサレムにちなんで「ヒエロソリュマタヌス」と呼ばれた。 ゴドフロワ・ド・ブイヨンの生涯は死後数年を経たずして伝説となり武勲詩などに歌われた。 一方、十字軍将兵の不在はその間の西欧情勢に変動をもたらした。 例えば、ノルマンディー地方は領主ロベール・カルトゥース(ノルマンディー公ロベール)不在の間に弟ヘンリー1世(前節参照)の手に渡っていた。 帰還した兄は弟と争い、1106年にはティンチェブライの戦いが起きた。 また、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)は十字軍国家が建国されたことで、イスラム諸国からの圧迫はなくなったが、今度は十字軍国家と対立することになった。

正教会とカトリックの和解が十字軍を唱えたカトリック教会指導者側の当初の動機の一つだったにもかかわらず、両者の溝は十字軍により深刻化した。 両教会はそれまで、教義上は分裂しつつも名目の上では一体であり、互いの既存権益を尊重しつつ完全な決裂には至っていなかったが、十字軍が正教会のエルサレム総主教を追放し、カトリックの総大司教を置いたことで、この微妙な関係は崩れ断絶が深まった。 他方、イスラム諸国は依然として内紛をやめず、争いに十字軍国家を利用するため、これらと同盟を結んだ。 このあとイスラム勢力の軍もいくつかの戦いで十字軍を破ったが、積極的な反十字軍を企図する者は現れなかった。 イスラム国家が西からのキリスト教徒を放逐するのは、12世紀中葉のサンギー朝のヌールッディーンとアイユーブ朝のサラーフッディーンの時代まで待たねばならない事になる。

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 もともと十字軍は一部の騎士に対する呼びかけであったが、やがて膨大な人数を動員して移民活動のような状況を呈することになった。 十字軍への呼びかけというのは当時のカトリック教徒にとって魅力のある言葉だったのである。 東方のビザンツ帝国やイスラム諸国がもたらす発達した文化や洗練された工芸品や文物、富は西欧の人々を魅了していたのである。 下級騎士は封建制度の息苦しさと貧困から逃れようとし、農民や職人も貧しく困難な日常から逃れたいという気持ちを持ち、東方には豊かで文明的ではあるが柔弱な世界が広がっていた。

西ヨーロッパ中世におけるキリスト教徒の2つの生き方、聖なる戦士と巡礼者が一つに結びついたのである。戦闘に参加した者に免償が与えられる、あるいは戦闘で死んだ者が殉教者となりうるというのは、十字軍運動の中で初めて生まれた概念であった。 そして十字軍に参加することで与えられる免償は、エルサレムへ詣でるという巡礼者としての免償と、キリスト教戦士として戦うという免償の二重の意味があるため、どちらにせよ免償を受けられるというのが魅力であった。 このように宗教的なものから、世俗的なものまで、さまざまな動機によって十字軍運動に身を投じたのである。 その精神構造が次なる十字軍を生み、送り出して行く。

十字軍の主要な従軍者は貴族でも相続権を持たない子弟か、また貧しい下級騎士が一山あてようと財産目当てで志願したものであった。 一方では十字軍運動に参加した当時の人々にとって重要なのは、地上の富だけでなく霊的(精神的)な富であったとの考えもある。 以降に送り出される十字軍においても、一般的には十字軍士を駆り立てたものは、宗教的情熱、名誉欲、冒険、領土・財産欲の組み合わせであり、その比重は人と時代により違う。 だが、 テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団といった騎士修道会に組織されて、エルサレム王国を防衛する一団が現れてくる。 彼らは 宗教的情熱、名誉欲、冒険に全財産を委ねて聖地・エルサレム向かう。

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 ===== 続く =====

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