十字軍とテンプル騎士団=20=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆ 第3回十字軍とサラディンとの戦 ② ◆◇

リチャードとサラーフッディーンは戦闘と同時に1年以上に渡って交渉を重ね、1192年9月2日、アッコンを含みティールからヤッファに至る沿岸部のいくつかの港をエルサレム王国の管理下に置き、エルサレムはイスラム教徒の統治下に置くという最終的な休戦協定を結んだ。 その協定の但し書きとして非武装のキリスト教徒の巡礼者がエルサレムを訪れることを許可するという条件も加えられた。 その結果 9月末、リチャードはイングランドに向けて出発し、第3回十字軍は終了した。 しかし、イスラム勢力下へのエルサレム陥落とサラーフッディーンの戦いの後遺症は大きく、以後十字軍国家は守勢に回ることとる。 また、聖地・エルサレムを目指す巡礼者達の旅程の安全や彼等の旅程経費の管理・保護でテンプル騎士団の組織は肥大化して行く。

テンプル騎士団は、 特に前節の“モントギサールの戦”(1177年)でサラーフッディーン率いるイスラーム軍を撃退し、フランスのフィリップ2(尊厳王)やイングランドのリチャード1世(獅子心王)とも共闘し第3回十字軍を軍事的に支援し勇名を馳せていた。 また、テンプル騎士団は第二回十字軍(1147年)に際して、フランスのルイ7世を助けて奮闘したため、十字軍の終了後、ルイ7世から寄贈されたパリ郊外の広大な土地を西欧における拠点として、イベリア半島でも対ムスリム勢力戦に従事して、その勇名を不動のものとしていた。 しかし、数々の特権を受けて肥大化していく騎士団に対し、地域の司教たちやほかの修道会からの批判の声が聞かれるようになった。 それだけでなく、後述するように一切の課税を免除され、自前の艦隊まで有して商業活動や金融活動を行っていた騎士団は、商人や製造業者たちの敵意を受けるようになっていった。

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☛ ☞   “第3回十字軍の影響

  • エルサレムこそ奪回できなかったが、ハッティンの戦い以降のサラーフッディーンの破竹の進撃を食い止め、沿岸部の都市のいくつかを取り戻した。 特にアッコンを奪回しキプロスを占領することにより、レバント貿易を維持し、以降、100年弱に渡りキリスト教勢力は海岸線を保つことができた。
  • 東ローマ帝国の十字軍への非協力や十字軍側のキプロス占領などにより、東ローマと西欧側の軋轢は一層激しくなった。
  • ローマ教皇は各国王が主体の十字軍に失望し、再び第一回十字軍のような諸侯十字軍を望むようになった。
  • 十字軍終了後もアッコンに残ったドイツ人たちは、後のドイツ騎士団の基礎となる野戦病院を創設した。
  • サラーフッディーンはこの戦いで病気がちになり、第3回十字軍の1年後、1193年にダマスカスで死去し、その後は子供らによる後継争いが9年間続いた。 結果、彼が起こしたアイユーブ朝はアル=アーディルにより統一される。

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☛ ☞   ❝ アル=アーディル ❞ 

生没年:1145年- 1218年の彼は、アイユーブ朝の第4代スルタン・サラーフッディーンの弟。 サラーフッディーン・ユースフがヨーロッパにおいて「サラディン」と呼ばれたのと同様、彼もラカブのサイフッディーンから「サファディン」と呼ばれる。 兄に従って十字軍との戦争で活躍した。 兄サラーフッディーンとともに叔父シールクーフに従い1168年の第三回エジプト遠征に従軍。 そのままエジプトにとどまり、兄の名代としてエジプトを統治していた。 1174年、ファーティマ朝残党が上エジプトで反乱を起こした際、これを鎮圧。 1177年、サラーフッディーンが新たな艦隊の建造を命じ、アーディルは新設の「艦隊庁」の長官に任じられ80隻の艦隊を揃え、レバント海域の制海権を確立。

サラーフッディーンの対十字軍戦争に援軍の要請があり、1183年にはエジプト軍を率いてカラク攻撃に合流。 アーディルはアレッポの統治権を所望してサラーフッディーンがこれを認めたため、この後アーディルはアレッポに移ったが、すぐにエジプトで問題が起こったためカイロに舞い戻っている。 1187年のハッティンの戦いの後は兄と合流し、エジプト軍を率いて十字軍との戦いに身を投じた。第3回十字軍に際してはアッカ攻防などに参加。 最終的には和平交渉を受け持ち、リチャードとの和約を実現させた。

1193年3月4日の兄・サラーフッディーンが崩御すると、兄の遺児たちによる権力闘争が始まる。 アーディルは、アレッポをサラーフッディーンの三男ザーヒル、エジプトを同次男アジーズに封じる等の曲折を経た後アーディルはダマスカスのアル=アフダル(サラーフッディーンの長男)と組んで、シリアを伺うエジプトのアジーズと対抗することにした。 シリアへのアジーズの二度の攻撃を退けた後、彼はエジプトに乗り込んでアジーズを抱き込み、反アフダルに転じてダマスカスをアフダルから無血で奪取し、アフダルをサルハドへ追放する。

しかし、1198年にアジーズが落馬事故が原因で死去すると、エジプトの武将たちの要請を受けてアフダルが追放先のサルハドからエジプトに乗り込んだ。 アフダルはアジーズの子マンスールの後見人としてエジプトの実権を握り、すぐにアレッポのザーヒルと結んでアーディルの確保するダマスカス攻撃を目論んだ。 これを知るとアーディルは戦闘中だったマールディーン包囲戦を息子カーミルに任せ、すぐさま取って返した。 結局アフダルによるダマスカス攻撃は失敗に終わり、アーディルはこの機を見てエジプトへ侵攻した。 アフダルはこれを撃退すべくサーニフに布陣するが、あっけなく敗れ、エジプトを掌握したアーディルはスルターンとして即位(1200年)し、アフダルは再び地方の都市を与えられて追放された。

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 ===== 続く =====

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