十字軍とテンプル騎士団=22=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆ 交易国家元首の参加と東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の崩壊 ◆◇

第3回十字軍の帰国に伴い、テンプル騎士団の経済的な発展とは裏腹に、1187年までに中東情勢は悪化の一途をたどっていた。 当時のテンプル騎士団総長ジューラール・ド・リデフォールは宿敵サラーフッディーンとの数次にわたる戦いに敗北するだけでなく、自らが捕虜となるという致命的な失態を演じた。 これは投降よりは死を選ぶという騎士団の勇名に泥を塗ることになった。 ジェラールは一度は解放されたが、再び捕虜となって斬首されたため、ヨーロッパでのテンプル騎士団の威信は落ちてしまう。

そして、1291年、レヴァントにおける最後の十字軍国家であったエルサレム王国のアッコンがマムルーク朝アシュラフ・ハリールにより陥落すると、キリスト勢力は完全に聖地周辺の足がかりを失うことになった。 軍事活動がなくなっては存続できない他の騎士団が存亡をかけて新たな目標を見つけていく中で、特権と財産に守られていたテンプル騎士団には危機感がなく、スペインでのムスリム勢力との小競り合いを除けば、ほとんどすべての軍事活動を停止するようになっていた。

1198年にローマ教皇インノケンティウス3世が行った新たなる十字軍を呼びかけに、紆余曲折した後、1201年に十字軍参加者はヴェネツィアに集結し始めたが、当初予定した3万人の約1/3の人数しか集まらなかった。 このため、参加者の有り金を全部集めてもヴェネツィアに支払う船賃が大幅に不足し、出航することができなくなった。 そこでヴェネツィア側との協議の結果、かつてのヴェネツィア領で当時はハンガリー王保護下にあったザラ市(現在はクロマチアの都市サダル)を攻略することで、船賃の補填とすることにした。 同じキリスト教徒のザラを攻略することには、十字軍内にも大きな抵抗感があったが、結局ザラを攻撃し、数日でこれを降伏させた。 知らせを聞いたインノケンティウス3世は激怒し、十字軍を破門にしたが、十字軍からの弁明を受けて破門を解いている。

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 その経緯は、12世紀後半にハンガリー王国が領有するザラ市はアドリア海東岸中央部に位置し、ヴェネツィアから地中海出るには風待ち等に必要にして絶好の良港であった。 1202年、第4回十字軍を事実上率いていたヴェネツィア共和国元首エンリコ・ダンドロがザラを攻撃し、ザラ市は占領され、街は破壊と略奪に見舞われた。 港はヴェネツィアの管理下に置かれ、瞬く間に街全体をヴェネツィアは地中海交易の中継地とした。 また ザラを第4回十字軍支援の兵站基地として運用した。 インノケンティウス3世は十字軍を経済的に支える力はなく、交易商業で成り立つ国家の元首が示す戦略には手出しできなかったのであろう。 ザラから出陣したダンドロ指揮下の十字軍は東ローマ帝国のコンスタンティノープルを陥落させ、東地中海の商業覇権を握ることになっていく。

ところが、ザラに東ローマ帝国(ビザンチン帝国の亡命皇子アレクシオスが訪ねてきて、帝位獲得の助力を願い出た。 アレクシオスの父は皇帝イサキオス2世だったが、弟(アレクシオス3世)により簒奪されており、正当な帝位を回復したいとのことで、見返りとして、20万マルクの支払い、東ローマ帝国の十字軍への参加、東西教会の統合を提示した。 十字軍の指導者モンフェラート侯・ボニファチオとヴェネツィアのダンドロはこれに賛成した。 他の十字軍士は躊躇し、一部の者は別行動をとったが、結局大部分の者はこれに同意し 行動を共にする。

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☛ ☞   “コンスタンティノープル攻撃

第4回十字軍は海路で1203年6月にコンスタンティノーブルに到着し、アレクシオスを帝位に就けるよう要求したが拒絶され、7月には攻撃を開始した。 コンスタンティノープルはそれまで数々の攻撃を防いできた難攻不落の城塞都市であったが、十字軍はヴェネツィアの優勢な海軍力を生かして海側から攻撃を仕掛けると同時に、陸上からフランス騎士隊が攻撃をかけた。 攻防の途中でアレクシオス3世は逃亡し、残された者はイサキオス2世を復位させて、城門を開いた。

しかし、父イサキオス2世とともに共同皇帝として即位したアレクシオス4世は十字軍との約束を果たせなかった。 東ローマ帝国の国庫にはそれだけの金がなく、東西教会の合同にも正教会側の激しい抵抗があり、即位したばかりのアレクシオスには、新税を課したり、強制したりする力がなかった。 十字軍は約束を果たすよう要求し、また、東ローマ軍や市民との間にいざこざが起こり、次第に両者の仲は険悪になっていった。 そして翌年(1204年2月)に先帝アレクシオス3世の婿であるムルヅフォロスがイサキオス2世とアレクシオス4世を共に殺してアレクシオス5世を称したことにより、両者は決裂し、十字軍は再びコンスタンティノープルを攻撃することになった。

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 1204年4月に攻撃を開始したが、今度は東ローマ側も慣れてきており、十字軍側の苦戦が続いた。 しかしコンスタンティノープル城内にはヴェネツィアの居留民が大勢住んでおり、彼らが東ローマへの抵抗に回ったため、東ローマ側も防衛は苦しいものだった。 苦戦の中、12日になり十字軍側が城壁への侵入に成功し、これを見たアレクシオス5世は夜更けに逃亡し、代わって皇帝となったコンスタンチノ・ラスカリスも選出されてからわずかな期間でコンスタンティノポリスを逃れ、弟テオドロスとともに小アジアに逃亡し 抵抗を断念した。

東ローマ側は抵抗をやめたが、都市に侵入した十字軍はコンスタンティノープルで破壊と暴行の限りを尽くした。 アキア・ソフィア大聖堂に立てこもった者も含めた聖職者、修道士、修道女、市民たちは暴行・殺戮を受け、一般市民・修道女の別を問わず女性達は強姦された。 総主教座には娼婦が座り込んで卑猥な歌をわめきちらした。 市街のみならず聖堂や修道院でも略奪が行われ、貴重な品々は持ち去られるか、持ち帰れないものは破壊された。 歴史的に重要な遺構のことごとく破壊されて行った。 こうしたコンスタンティノープルに対するヴェネチアと十字軍の暴行は、彼らが東ローマ帝国の信仰を自分達と同じキリスト教のものであるとは考えていなかった事を示しているのであろうが・・・・・・

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===== 続く =====

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