十字軍とテンプル騎士団=23=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆  ラテン帝国の建国と第4回十字軍の残したもの  ◆◇

ローマ教皇イノケンティウス3世の呼びかけにより実施された第4回十字軍は、遠征費支援提出の約束を反古にした東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の帝都になだれ込み略奪と暴行をの限りを尽くした。 これを見たアレクシオス5世は夜更けに逃亡し、代わって皇帝となったラスカリスも抵抗を断念し逃亡した。 聖職者、修道士に修道女、市民たちは暴行・殺戮を受け、一般市民・修道女の別を問わず女性達は強姦された。 そして、十字軍の名の下に新たなラテン帝国が作られる(1204年)。 皇帝にはフランドル伯ボードゥアン9世が選ばれた。 領土はヴェネツィアやモンフェラート侯等の主要参加諸侯で分割される。

この新しい十字軍国家創設に対して、イノケンティウス3世教皇はコンスタンティノープル攻撃に怒ったが、攻略成功後は東西教会の統合を祝福した後に、十字軍にエジプトへの出立を促した。 がしかし、第4回十字軍の指導者®達は彼らは獲得した領土に居座って、再び出立することはなかった。

 彼らの多くは、シリアやパレスチナより国土が豊かな東ローマの征服に満足していたし、それ以上に現地の反乱やニカイア帝国ブルガリア帝国の侵攻への対処に忙しく、外征どころではなかったのである。 一方、東ローマの皇族たちは帝国周辺の各地に亡命し、小アジア西部のニカイア帝国、小アジア北東部のトレビゾンド帝国バルカン半島南西部のエピロス専制侯国などを立てた。

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 ヨーロッパでは、第4回十字軍はが、現地での争いに忙殺され、エルサレム攻略に向かわないのに失望したローマ教皇イノケンティウス3世は、1213年の教皇教書で新たな十字軍の招集を呼びかけ、1215年の第4回ラテラン公会議で正式に発布した。 この時点では、神聖ローマ帝国(ドイツ・オーストリア)においては前年のブービーヌの戦いに敗れたヴェルフ家のオットー4世が失脚し、教皇が支持するホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世が名実共にドイツ王となり、フランス南部におけるアルビジョア十字軍もトゥールーズ伯レーモン親子の亡命により一旦収束しており、西欧は一致して十字軍を派遣できる状況と思われた。

☛ ☞   “ブーヴィーヌの戦い

 ブーヴィーヌの戦い(Bataille de Bouvines, Battle of Bouvines, 1214年7月27日)は、フランス王フィリップ2世が神聖ローマ帝国オットー4世フランドル伯フェラン、イングランドのソールズベリー伯ウィリアム(長剣伯)、ブローニュ伯等の連合軍をブランドルとフランスの境近くのブーヴィーヌで破った戦いである。 参戦、もしくは関わっていた国(組織・地域)と人物の数は中世ヨーロッパにおいて十字軍を別にすれば最大の会戦だった。 この勝利によってフィリップ2世はカペー朝の王権を確実のものとした。

一方、敗戦の結果、オットー4世は皇位を失い、イングランド王ジョンは大陸領土の回復に失敗し、イングランドで諸侯の反乱に屈することになる。 この戦いにより、フィリップ2世が進めてきたフランスの優位は確定し、以降1世紀に渡り、ヨーロッパにおけるフランスの優位が続いた。
尚、神聖ローマ皇帝オットー4世は皇位を失う。 イングランド王ジョンは、大陸領土の回復に失敗し、本国では諸侯の反乱に屈してマグナ・カルタを認めることになる。

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 しかし、1216年にはレーモン親子の帰還によりアルビジョワ十字軍の戦いは再燃し、従来から十字軍の中心だったフランスの騎士達は第5回十字軍に参加する余裕がなかった。 一方、十字軍参加を誓ったものの、元々宗教的に寛容なシチリアに育ったフリードリヒ2世はイスラム教徒との戦いには熱心でなく、イタリア政策において対立するローマ教皇との条件闘争が先決だった。 ローマ教皇はこれまでの失敗の反省から、第2回十字軍、第3回十字軍のような国王中心の十字軍や、第4回十字軍のような諸侯の自由な主導によるものでもなく、第1回十字軍のような教皇使節が主導する十字軍を意図していた。

結局、新たに教皇となったホノリウス3の呼びかけに対してフランスの騎士はさほど集まらず、ハンガリー王アンドラーシュ2世とイタリア、ドイツ、フランドルの騎士等が参加する。

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☛ ☞   ❝ 第4回十字軍の影響 ❞

第5回十字軍に話を進める前に、第4回十字軍が以降の十字軍に与えた影響を整理しておこう。 まず根幹的な問題として、これ以降、十字軍はローマ教皇の制御から離れ、参加した王侯の利害に左右されることが一層強くなった。 そして・・・・・・

  • 西欧からはイスラムに対する防壁の役割を果たすと見られていた東ローマ帝国が、多大な人力、財力を奪われたため弱体化させられた。 1261年にニカイア帝国がラテン帝国を滅ぼして東ローマ帝国を復興させたが、結局往年の勢力を取り戻すことが出来ず、後にオスマン帝国のヨーロッパへの侵入を許すことになった。
  • 東ローマにあった大量のイコンなど美術品、古代の遺物、聖遺物、多数の書物が持ち去られたり、破壊されたりした。 ただし、結果論であるが、東ローマに残ったものの多くは、後にオスマン帝国による陥落の際略奪されたり、偶像崇拝を禁止する宗教上の理由により破壊されたため、却って貴重な品が西欧に保存されるという効果もあった。
  • ヴェネツィアが東地中海の制海権を確立した。ヴェネツィアは巧みな外交で東ローマ帝国復興後も、それどころかオスマン帝国勃興後も長きにわたって制海権を確保し続けた。
  • 援軍が来ないと知ったアンティオキア公国、トリポリ伯領、アッコンなどシリア沿岸の十字軍国家はエルサレム攻略をあきらめ、アイユーブ朝と更なる休戦の延長に応じ、沿岸部での両者の共存が続く。

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 ===== 続く =====

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