十字軍とテンプル騎士団=26=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆ 早く生まれ過ぎた男・フリードリヒ2世 ◆◇

エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌを支持する現地諸侯と教皇使節として後発軍を率いて到来したペラギウス=現地入り(1218年9月)の後に、「教皇代理」として十字軍の指揮権を要求=との不和の中、第5回十字軍はジャンを支持する現地諸侯とフランス勢の一派とペラギウスを支持するイタリア勢、更には テンプル騎士団総長・ギヨーム・ド・シャルトルのり陣没(病死)で指導者は無くした聖地・騎士団との三つ巴の対立が明確になった中での“カイロ進撃”は失敗に終わる。

 その結果、第5回十字軍のおけるペラギウスとジャン・ド・ブリエンヌが失敗の責任者として非難されたが、フリードリヒ2世も自ら行かなかったことで大きな非難を受け、まもなく第6回十字軍を起こすことになる。 しかあし、これ以降の十字軍は各国王の主導によるもので、教皇主導の十字軍はこれが最後となった。

1222年にエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌ(前節参照)の一行が、神聖ローマ帝国領のブリンディジに上陸する。 フリードリヒはブリエンヌの元に使節団を派遣し、彼とともにローマに向かった。 ローマでは東方のイスラム教徒への対策が議論され、議論の中でフリードリヒとブリエンヌの娘ヨランド(イザベル)の結婚、結婚後2年以内にフリードリヒが十字軍に参加する取り決めが交わされたのである。 そして、1225年11月9日にフリードリヒは成人したヨランドと再婚し(最初の妻コンスタンツェは1222年に死没していた)、同時にブリエンヌにエルサレム王位とヨランドが有する権利を譲渡させた。

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 第5回十字軍は失敗に終わり その原因の一つとして、教皇ホノリウス3世(前節参照)との交渉により1220年に神聖ローマ帝国・皇帝に戴冠し、十字軍遠征を誓いながら出発しなかったフリードリヒ2世が非難された。 ホノリウス3世も破門をちらつかせて、新たな十字軍の遠征を迫っていた。 しかし、元々宗教的に寛容なシチリア王国に育ったフリードリヒ2世は十字軍には熱狂せず、十字軍を対イタリア政策における教皇との交渉材料として認識しており、地中海からパレスチナに自己が統治する“神聖ローマ帝国=シチリア王国”の勢力を拡大することを目的としていた。 従って、ジャン・ド・ブリエンヌの要請に応えて、その娘でエルサレム女王であるイザベラ2世(ヨランド)と結婚し、エルサレム王位を手中に握るもエルサレムに向かうべき行動はさらに2年間の引き延ばしを行った後に出立する。

1227年に出発してフリードリヒ2世は軍団を率いてエルサレムに向かう。 立ち寄ったイタリア南部でアドリア海に面する良港・プリンディシュまで行ったが、疫病が流行して多くの将兵が命を落とし、従軍していチュリンゲン方伯ルートヴィヒ4世も死亡したため引き返してしまった。 友好的だったホノリウス3世が半年前の3月にて亡くなっていた。 そして、強硬派として知らグレゴリウス9世が新たな教皇となっていた。 グレゴリウス9世はフリードリヒ2世の言動や特に十字軍の延期を誓約違反として彼を破門にすると警告していた。 そして、プリンディシュからの帰国である。

 猶予期間が過ぎると破門が実行され、フリードリヒには神聖ローマ帝国の皇帝としての廃位の危険がせまった。 さらに彼がシチリア王国の教会のコントロールを強化した事、教皇への従順の誓いを破棄する構えを見せ、シチリアでの地盤を固めた事で教皇との溝が一層深まった。 フリードリヒ2世はヨーロッパの諸侯に自分に対する仕打ちが不当であると訴えるとともに、再び 軍勢とともに聖地へ赴いて誓いを果たそうとした。

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 結局、1228年に40,000の軍を率いて彼はエルサレムに向かう。 破門された皇帝による十字軍に抵抗を感じて、帰国する者も多かった上に、道中で軍内に疫病が流行り、フリードリヒ自身も病に罹ったために聖地の土を踏まずに帰国した。 この時にフリードリヒはサレルノ大学の衛生学に触れ、中世ヨーロッパでは稀な毎日入浴する衛生観を身に付けた。 しかし、グレゴリウス9世は教会権力への脅威となっていたシチリアの力を抑えるため、仮病と判断してフリードリヒを完全に破門する。 フリードリヒ2世は破門を解くべく教皇と交渉を行ったが成功せず、遂に1228年6月に破門のまま 三度目の第6回十字軍を起こして出立、9月にアッコンに到着した。 アッコンにン入港した第6回十字軍の統率差が“破門者”では聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団は従わず、現地諸侯も協力に消極的だった。

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 しかし、フリードリヒ2世には、かねてからアイユーブ朝とのコネクションが有り、秘策があった。 事実、彼は出立前には既に予備交渉を行わせていたのである。 余裕を持つ フリードリヒ2世はアッコンに到着する道中でキプロス王国の政争に介入して、地中海東部の制海権を整備していた。 状況として、教皇庁は破門したフリードリヒ2世が率いる十字軍に批判的であり、現地の将兵はフリードリヒへ2世の協力を拒否した。 各騎士団は寄り付こうともしなかった。 一方、エルサレムを統治するアイユーブ朝のスルターン・アル=カーミル(前節参照)は、アラビア語を介してイスラム文化に深い関心を抱く、これまでに聖地を侵略したフランク人たちとは大きく異なるフリードリヒに興味を抱いた。 アル=カーミルは当時シリアの兄弟達と争っており、同盟を条件にエルサレムを返還する意向だった。

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 ===== 続く =====

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